2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻は世界を驚かせました。私自身もロシアとウクライナの関係が様々な問題を抱えていたことは承知していましたが、戦争になるとは考えておらず、開戦以来反省することが多かったです。自分が主なフィールドにしてきた二つの国が正面から戦争をはじめ、私の知っている現地の人も少なからず巻き込まれることになりました。様々な感情に揺り動かされる毎日ですが、研究者としては、なぜ戦争にまで至ったのか、冷静に考察しなければならないと考えています。
私の専門としているスラヴ・ユーラシア地域研究は、1991年にソ連邦が唐突に解体したことによって誕生した諸国を主な対象にしています。1917年にはロシア革命によって世界を震撼させ、共産党体制という独特の政治体制を生み出し、冷戦ではアメリカと並ぶ一方の極として世界政治に君臨し、1991年には巨大国家が解体することで再度世界を震撼させ、今再びロシア・ウクライナ戦争により世界の関心が集まるようになりました。しかし、そうした大事件が多発している割には、事件のたびに一過性の関心事になるだけで、恒常的な関心の対象にはあまりなってこなかったように思います。私を含め、この地域の研究者の力不足ですが、それでもこの地域の政治は大変に興味深いと確信を持って言えます。
国際政治学の古典的な問題である戦争と平和を考えるのに、今まさに戦争をしているこの地域を深く理解することは極めて重要でしょう。革命という政治現象を考えるのにロシア革命が古典的な事例であり続けているのは言うまでもありません。今日、民主主義とは何かを考えるにあたって、ソ連のことを含めて考える人はほとんどいないでしょうが、ソ連の政治体制は西側以上に民主的であると公式には主張されてきました。1991年に誕生した新国家群は、当初国家としての体裁をなしていない国がほとんどでした。その後の展開を観察して、国家建設の過程を同時代的に観察することができます。また、この地域の多民族性は、多民族の共存という今日の最重要問題の一つを考えるうえでも貴重な知見を提供してくれます。
私自身は、ソ連体制の崩壊過程という歴史的な研究テーマと、ロシアやウクライナ現代の政治という二足の草鞋を履きながら研究してきました。歴史的なテーマをやるときも、現代政治をやるときも、調査をするために現地に降り立ったときはいつも知的な興奮を覚えます。学生の皆さんともこの地域の面白さを共有して、政治学上の大きな問題を一緒に考えていきたいと思います。
私たちは日々の生活の中で、新聞、テレビ、インターネット、書籍、雑誌など、さまざまなメディアから、自分の暮らすコミュニティ、地域、国家、世界、宇宙に生じている事象についての情報を得て、より幸せに生きるための判断を下しています。日々メディアを賑わせる汚職、少子化、ジェンダー格差、過疎化、景気低迷、デジタル化、個人情報保護、経済安全保障、認知戦、米中対立、テロ・戦争、貧困、環境破壊、地球温暖化......私たちの眼前に広がる問題群を、「公的権力」のあり方に着目して分析し、人間の自由と豊かな生活をもたらす権力のあり方を構想するのが政治学という学問です。
政治学の特徴は、その対象の広がりやアプローチの多様性にあると言えるでしょう。例えば、政治学の主なテーマの一つである「民主主義」をとっても、政治思想史や規範的な理論に基づいて民主の在り方を論じることもできれば、経験や実践から帰納的に理論を導き出すこともできます。日本や各国、地域社会の内在的視点に基づいて論じることも、特定の指標に基づいて異なる国や地域の民主の状況を比較することもできます。また、「民主主義」という価値が国家間関係や国際組織を通じたガバナンスの道具としてどのように用いられ、どのような影響をもたらしているのかという観点も重要です。
慶應義塾大学法学部政治学科には、4年間かけて、包括的かつ専門的に政治学という学問を探究できるようなカリキュラムが整っています。5つの系列―― ①政治思想、 ②政治理論・政治社会、 ③日本政治、 ④地域研究・比較政治、 ⑤国際政治におよぶ80以上もの科目を提供している大学は、他にも類を見ないでしょう。また、演習や特殊研究、研究会(ゼミ)など、多様な少人数の授業も設置されています。「半学半教」の精神に基づく教員や仲間との議論こそ、答えのない政治学という学問を究める上で大事だと考えるからです。
政治学科に入学された1年生の皆さんには、二つのことを求めたいと思います。一つは、自分の好奇心に任せ、時空を超えて、分野を超えて幅広く関心を寄せることです。権力の及ぶところにあまねく政治があります。社会科学のみならず、自然科学、医療、文学、芸術、スポーツ......好きな分野に真剣に取り組んでください。その取り組みは、必ずや政治学科で培った視点と繋がり、社会を豊かにするアイディアとして結実するでしょう。「高い山ほど裾野が広い」とは、真実を言い当てていると思います。
もう一つは、すべての情報ソースの背後にある権力関係に目を配ることです。インターネット情報はもちろん、大手メディアも、また『政治学』の教科書ですら、時々の権力構造の産物である点に違いはありません。生成AIの出してくる答えはなおのこと、一定の権力構造によるバイアスがかかっています。皆さんには、情報を鵜呑みにすることなく、あらゆる言説の背後にある権力関係を踏まえて、観察対象を捉え、自立的に考える習慣を身につけてほしいと思います。
当たり前なことをいいますが、世の中にはいろんな人がいます。身体的特徴や社会的境遇の違いはもちろんのこと、価値観やアイデンティティ、さらには政治観もさまざまです。時の政権を支持する人もいれば、批判する人もいます。政治に無関心な人もいます。でも不思議だとは思いませんか。なんでこんなにも多様な人間が国家のような共同体をつくって平和に暮らすことができるのでしょうか。 いや、世界に視野を広げれば、みんながみんな平和を享受しているわけではありません。紛争に巻き込まれている人、そうでなくても不正や貧困に喘いでいる人は依然としてたくさんいます。 さらには、地球上に住むすべての人間にかかわるグローバル・イシューもあります。地球温暖化を含む環境問題、エネルギー問題、食糧問題、パンデミック、などなど。これらは多かれ少なかれすべての人間、いや動物や植物にも、そして未来世代にも影響を及ぼします。 政治とは、このような問題と向き合いながら状況を少しでも改善し、みんなが平和に共存できる秩序を形成するための人間的営為だといえます。 しかし、言うは易く行うは難し。グローバル・イシューの解決どころか、昨今、先進諸国においても「デモクラシーの危機」とか「社会的分断」とか「貧富の拡大」などによって、現状維持すらままならない状況になってきています。 では、どうすればよいのでしょう。
政治学を学べば、解決策が明らかになる--わけではありません。残念ながら、世の中そんなに甘くありません。ですが、政治学の学びを通じて、問題の所在を明らかにし、解決にむけた思考を鍛えることはできます。政治学には大別して実証的アプローチと規範的アプローチがあります。前者は、現実がどうなっているか、それをデータ分析や歴史研究を通じて明らかにしようとするものです。後者では、どのような目標を追求すべきか、なぜそれがみんなにとって正しいといえるか、といった当為の問題を扱います。そして両方を理解し、組み合わせることが重要となりますが、政治学科では個々の学生が両方について学ぶことができるよう、たくさんの授業を提供しています。
ともに、真剣に考えることの困難とそれ以上の充実感とを味わいましょう。
実は、それほど美しい言葉ではないのが「政治」です。日常会話でも、「あいつの言動は『政治』的だ」とは、人を非難する表現です。また、お笑い芸人がTV番組で時の政権を揶揄しようものなら、「『政治』的な発言を控えないと、スポンサーが降りるぞ」との書き込みでネットが炎上します(面白いことに、政権を擁護する言動が「政治的だ」と非難されることは、あまりありません)。
つまり「政治」という日本語には、「その人ひとりの利益や理想のために、もっともらしい理屈を用いて、人びとからの支持を得ようとする腹黒さ」という意味合いがあります。そして、その言葉を冠した学科で勉強しようというわけですから、目をキラキラさせた新入生を前にすると、正直、私は何ともいえない気持ちになります。
にもかかわらず、政治学の魅力をここでは訴えなくてはなりません。しかも、この学問で駆使される用語の中でもとりわけ否定的なニュアンスの強い「権力」に引き付けて、政治学のセールスポイント述べようとするのですから、屈折した話になります。
さて、権力には否定的なニュアンスがある、と述べました。というのも、権力という強制力も突き詰めれば暴力だからです。けれどもそんな物騒なものを、どうして人間は必要とするのでしょうか。それは、「権力をチラつかせて脅さないと、そして最悪の場合には(最悪の場合、です)権力を実際に行使しないと、どうにもこうにもまとめられない。それほど、人びとが抱いている理想や利害は多種多様なんだ」と、人間が意識したからに違いありません。結論を急ぎますが、その意味では、政治と政治学が存在する世界とは、人びとや集団の個性がバラエティに富むことを大前提にしている世界です。政治学とは、多様性をめぐる知なのです。あるいはグローバルな視点から、あるいは制度に関心をむけつつ、またあるいは哲学的に、権力とそれが織りなす政治が私たちに必要とされていることの意味を考えてもらいたい。そういう思いを抱いて、私は毎年、日吉の教壇に立ち、皆さんをお迎えしています。
地域研究とは他者の生活する特定の地域への理解を深める作為です。理想的には、他者理解のためには言語を修得することから始まり、食生活や文化や慣習、そして政治・社会・経済制度などを学習して、その上で他者の考え方への想像力を磨く必要があります。言うまでもなく一朝一夕では他者理解はできず、じっくりと腰を据えて他者(そして自己)と向き合う必要があります。地域研究を極めるという理想の実現には時間がかかりますが、授業を介して少しでも他者理解の機会を学生諸君に提供したいとぼくは考えています。
ぼくの担当する科目は現代東南アジア論です。東南アジア地域は11個の国民国家が存在します。しかし東南アジアはその11カ国で閉じているのではなく、他の地域や国家や人との密接な関係性を有する開いた地域です。なかには国民国家への帰属を意識しないで生活している人びともいます。長く劇的な人の流れの歴史をもつ東南アジアは一筋縄では理解できない魅力が満載です。ぼくの講義では、空間的な地域、時間的な地域、そして実態としての東南アジアを複眼的に理解する試みをしています。それを通して、開いた地域としての東南アジアの軌跡と行く末について考える機会としています。
少人数の演習形式である特殊研究では、東南アジア地域に関する文献を介して他者理解の仕方を学生諸君とともに模索します。英語文献を主体にし、英語で授業をおこないます。英語で書かれた歴史、政治、社会、文化に関して知識の塊を紐解き批判的に読み込むことで、自分なりの問いと東南アジア理解が形成されます。英語で考えることは日本(語)的な理解から自らを解放する作業でもあります。英語は他者との共通理解への道を切り開き自らを相対化するツールです。英語を介した東南アジア地域研究はそうした可能性を秘める作業であると考えています。
アメリカの2020年大統領選挙で、再選をめざすトランプ大統領は人種や党派間の対立をあおり、選挙の正当性を認めようとしませんでした。年明けにはトランプ支持派が議会を襲撃する事件まで起きています。
しかしアメリカでは、トランプの登場以前から、人種や階層等の社会的な亀裂と二大政党間の対立が重なる形で、対立党派の人々を嫌悪し危険視する傾向が強まっていました。各州では、敵対する党派を打ち負かすべく、とくに共和党が選挙区の区割りや投票の手続きを操作するなど、民主的な手続きを通じて民主主義の制度的な土台を掘り崩しかねない動きも生じています。
アメリカに限らず、自分達だけが正しいという独善的な見方から反対勢力を敵視する姿勢が、ポピュリズムなどの形で他の国々でも目につくようになっています。政治体制、つまり国全体の政治の大枠に関する研究では従来、一度民主主義が安定すれば、以後体制は変わらないと考えがちで、どうやって独裁国家などを民主政という「ゴール」に導くかに関心が集まっていました。それが、先進国でも民主主義からの「後退」が懸念され、競争的な選挙といった民主的な要素を含む非民主主義体制の存在も注目されるようになっています。
このように、政治学では研究対象となる事象の深い理解と、計量的な分析も用いて幅広い現象を一般的・抽象的に説明しようとする姿勢の両方が求められます。私も、一般的な理論を踏まえつつ、アメリカで二大政党がイデオロギー的に分極化していく過程を歴史的に検討して、民主主義がどのように分断と対決の道にはまり込んできたのかを解明しようとしています。問いの探求には文理の垣根も越える政治学の貪欲な姿勢は、福澤諭吉先生のいう「実学〈サイヤンス〉」の精神に通じるものといえます。学生諸君にも、様々な考え方に触れるなかで「知的な欲張り」になってもらうよう心がけています。
今、国際秩序が大きく動揺しています。中国やロシアのような権威主義体制が影響力を拡大していることや、アメリカのトランプ大統領が多国間国際機関やいくつかの国際協定に敵対的な姿勢を示していることなどが、その原因として指摘されています。それとともに、国際政治学の世界では、リベラルな国際秩序が終わりつつあるという議論が頻繁に見られるようになりました。それは、われわれにとっても無関係ではいられない、重大な問題です。
20世紀に2度の世界大戦を経験した世界は、国際政治が暴力や無秩序に支配されることがないように、国際法や国際組織、さらには民主主義や人権といった規範によって支えられるようなリベラルな国際秩序を確立してきました。日本国憲法に埋め込まれた平和主義も、そのような国際秩序と不可分の一体となっています。われわれが国際政治を考える際にも、世界の動きと日本の動きを結びつけて考えることが重要です。
私はこれまで、世界史と日本史、さらには現代と過去を結びつけて思考する必要を強調してきました。慶應義塾は蘭学塾であった頃から「世界のなかの日本」を強く認識していました。福澤諭吉先生も『西洋事情』という書物などを通じて、世界の動き、とりわけ西洋列強の動きに目を向けていました。伝統を自覚しながら、最先端の革新的な知識を導入することこそが、未来を先導する若者には必要なのです。