算出可能性の原理

−ポパーにおける宇宙論と方法論の接点−

蔭山 泰之 (日本IBM)

はじめに

『探求の論理』の英訳とほぼ同時期に執筆が進められていた『科学的発見の論理へのポストスクリプト』は、一九八○年代に入ってバートリーの手によって三巻本のかたちで初めて出版された。そのうちの第二巻は非決定論の議論にあてられており、サブタイトルは「非決定論擁護論」(An Argument for Indeterminism)となっている。しかし、批判によって議論を展開するポパーの通常のスタイルの御多分にもれず、その内容は非決定論擁護というよりは、むしろ決定論批判である。
 決定論は伝統的にかなり形而上学的な性格が強いので、これをそのまま相手にするのは厄介である。そこでポパーは、決定論をかなり強力に補強して科学のレベルにまで引き上げ、その上でこれを叩くという作戦をとる。そしてその補強された決定論を科学的決定論と呼び、これの必要条件として算出可能性(accountability)(1)という原理を抽出する。本稿では、この算出可能性の原理によってポパーの思想を整合的に理解することを試みる。
 いうまでもなく、ポパーの議論は、宇宙論、科学論から社会論、政治論にいたるまで多岐に渡っており、これらすべてをひとつの思想として統一的に理解することはなかなか容易ではない。しかしそれでも、異なる領域の橋渡しになるようなキーコンセプトが得られる場合がある。算出可能性の原理は、そうしたキーコンセプトの一つとして、ポパーの非決定論を中心とする宇宙論と反証可能性理論を中心とする方法論の接点であると考えられる。しかもこの原理は、ポパーの思想内部の整合性を解明する上での重要なキーでもある。あまりにも多岐に渡っているからかもしれないが、ポパーの主張にはいくつかの内的不整合が指摘されており(2)、彼の非決定論と反証可能性理論の関係もそうした不整合をはらんでいるように見える。というのも反証可能性理論は、これまでかなり決定論的に解釈されてきたからである。この点を算出可能性の原理を手がかりとして解明していく。

1.科学的決定論と算出可能性

まず、算出可能性の原理がどのように科学的決定論を特徴づけているかを明らかにするために、ポパーが決定論をどう理解しているかを見ておかなければならない。

1.1.形而上学的決定論と科学的決定論

もっとも一般的に言うと、決定論とはこの世界のすべての出来事は予め決まっていて、変えられないという主張である。ポパーはこれを形而上学的決定論と呼ぶが、直接は相手にはしない。この主張は、これだけではいかなる経験とも矛盾せず、テスト不可能だからである。この形而上学的決定論は、実際には「明日は雨が降るか降らないかのどちらかに決まっている」というに等しいほど内容に乏しく、弱い主張である。そしてその主張が弱いものであるだけに、それだけわれわれにとっての影響力も弱く、脅威ではない。
 しかし近代科学の興隆とともに、ポパーが科学的決定論と呼ぶ新しいタイプの決定論が登場してきた。この科学的決定論は、ひと言で言うと、未来のどの出来事もあらかじめ合理的に計算することができるという主張である(3)。これには、世界の構造について主張している形而上学的決定論に加えて、われわれが未来の出来事をあらかじめ知ることができるという認識論的な主張まで含まれている(4)。われわれが知ることができなければ、未来の出来事があらかじめ決まっていてもいなくてもわれわれには関係ないと言えるが、それが実際に知ることができるとなると、このことはわれわれにとってきわめて重要な意味を持ってくる。だれもが自分がやがて確実に死ぬことは知っているが、もしいつ、どこで、どのように死ぬかが具体的に分かってしまったら、これは人生にとって重大な意味を持つだろう。「われわれには知られていないけど決まっている」では科学的決定論にはならない。あくまで「知ることができる」と言えなければならない。
 もちろん科学的決定論といえども、内容的にはかなり形而上学的である。しかしこれのなによりの強みは、科学的予測という経験科学の事実により支持されているように見えることである。そしてその経験科学の事実の支持が強力に見えるのは、科学的予測が出来事の定量的側面に言及しているからである。
 決定論の論拠としては、古くから因果性がもちだされてきた。どのような出来事についても、なぜそれが起きたのかという問いかけに対して、原理的に、それを引き起こした原因の出来事を挙げて答えることができるが、このことはどの出来事もあらかじめその原因を構成する出来事によって決定されているということを意味しているように思わせるからである(5)。ブンゲは、「因果性」ということばの主たる意味として、(a)普遍的ないしは特殊な因果連鎖における結び付きを意味するカテゴリーとしての因果性、(b)同じ原因は常に同じ結果を生むといったかたちの普遍因果律の言明としての因果原理、(c)因果原理の普遍妥当性を主張する因果的決定論の三つを挙げており、因果性が科学法則の確実性ないしは必然性を保証していた決定論の古典的見解は、(c)に基づいて主張されていたという(6)。しかしポパーは、こうした意味の因果性だけではまだ科学的決定論にはならないという。なぜなら、ここにでてくる原因の概念も結果の概念もどちらも定性的なものにすぎないからである(7)
 たとえば、初期値(a,b,c)からx時点にy地点での事象zが生起するという予測が立てられたが──すでに見たように、いつかどこかででは意味がない──、実際には事象zの生起はxyからずれていたとする。非決定論者ならこのことを科学的決定論に対する反駁と解釈するかもしれない。しかし科学的決定論者は、予測に使ったデータ(a,b,c)の精度が十分でなかったと言って、非決定論からの批判をかわすことができる。測定の微妙な差で出来事が異なると言えるからである(8)。しかしこのやり方は非決定論者、決定論者どちらにとっても満足の行くものではない。非決定論者にとってはデータの精度のせいにされたのでは、いつまでたっても決定論は反駁できなくなるからである。一方、決定論者にとっては、これで予測が的中してもしなくても決定論は擁護できるが、そうなると科学的決定論の主張がだんだんと経験から離れていってしまい、形而上学的決定論に戻ってしまうからである。つまり、このような言い逃れを繰り返していては科学的決定論がもっていた強力さが失われてしまうのである。言い逃れを許すと、結果でしかものが言えなくなるから、科学的決定論の強さは大幅に減少する。「知ることができる」が迫力をもつためには、主張内容が定量的でなければならない。したがって、科学的決定論がその主張の強力さを維持しようとするならば、ここでなんらかの工夫が必要になる。

1.2.算出可能性原理の定式化

科学的決定論者にとって一番望ましい成功は、できるだけ難しい予測という賭を行ってそれに勝つことである。つまり、なにかが起こった後から「それは分かっていた」と言うのでも、どうとでもとれる曖昧な予測を立てるのでもなく、なにかが起こる前にそれについて正確に予測し、しかもそれが的中することである。この場合、予測が言い逃れを許さないものであればあるほど、それが的中した時のインパクトは大きくなる。そしてこの予測の言い逃れを許さないようにするのが、算出可能性の原理である。ポパーはこれを次のように説明する。

いつでも初期条件が「十分に精確」でなかったと訴えることによって、すべての失敗を説明し去ることができるだろう。この状況を改善するためには、予測の結果をテストする前に、初期条件が十分に精確であるのかどうかが分からなければならないと要求せざるをえない。言いかえると、この特殊な予測作業を実行できるためには初期条件ないしは「データ」はどれほど精確でなければならないかを、理論とともにその予測作業から(それはとくに、予測に要求される精確さの度合いを述べなければならない)まえもって決定できなければならない。これをより詳細に述べると次のようになる。要求された精度をもって事象を予測することに失敗したとき、これを、われわれの初期条件が十分に精確でないと指摘することで、また手もとの特殊な予測作業のためには初期条件はどれほど精確でなければならなかったのかを述べることで、あらかじめ説明[算出]できなければならない。このように、「科学的」決定論のどのような満足のいく定義も、われわれの予測作業(もちろん理論とともに)から初期条件の要求すべき精度を算出できなければならないという原理(つまり算出可能性の原理)に基づかなければならないだろう。(9)
つまり、どうなったら予測が成功して、どうなったら予測が失敗するかを、事前に明らかにしておけということである。
 ここで注意しなければならないのは、この原理は科学的決定論が科学的であるために必要不可欠なものだということである。なぜなら、算出可能な(定量的)予測は算出可能でない(定性的)予測よりも経験内容が豊富だからである。科学的決定論は形而上学決定論が経験内容をもったものと捉えることができるならば、その経験内容を付与するのがこの算出可能性の原理である。科学的決定論が科学的であるためには、算出可能性の原理が必要なのである。科学的決定論は「可能な前もっての知識というあいまいな観念を、予測についての合理的で科学的な手続きに応じた予測可能性というより精確な観念で置き換えようとする試みの結果である。」(10)
 またこの算出可能性の原理は、予測の精度の改良可能性を原理的に保証するものである。言うまでもなく、技術的問題などさまざまな実際的な事情のために、いかなる誤差も含まない絶対的な精確さをもって立てられた科学的予測など、現在までのところどこにも存在しない。しかしこのことは科学的決定論にとってなんら反論の論拠にはなりえない。なぜなら、現在のどの予測も改良可能であれば、絶対的精確さに限りなく近づくことができると言えるからである。ある一定の精度をもって初期条件を確定し、それに基づいてある事象の予測を行った結果、予測とのずれが生じることは当然予想される。科学的決定論者にとって肝要なのは、これをある範囲にとどめるためには、初期条件の精度をどれだけ上げればよいかが、その予測値と実測値のずれから合理的に判断できることである。そうすれば、予測の精度は望むがままにいくらでも改良できる。つまり「測定の不精確さの範囲を好きなだけ小さくできる、つまりだれかが指定するある限られたどの範囲よりも小さくできる」(11)といった、いわば解析学でのε-δ論法のような議論ができればよい。そして、この仮定は、算出可能性の原理が成り立つことによって初めて可能になる。つまりこの原理は、失敗から学ぶことを可能にする原理である。算出可能性の原理が成り立たない単なる定性的な予測では、予測が外れた時にどこをどのように修正すればよいのか、あるいは予測が当たったのか外れたのかさえまったくわからなくなってしまう。この意味では算出可能性原理とは、いわば科学的決定論を構成する方法論的原理であると言える。

1.3.算出可能性原理の意味

以上のような算出可能性の原理によって、科学的決定論は原理的に現実の科学の能力の範囲内で成り立つ主張になっている。ポパーによる算出可能性原理の説明を見ると、ここには霊感や直感などの形而上学的手段はまったく出てこないで、すべて現実の科学のことばで語られていることが分かる。科学的決定論は、経験科学の成功の結果として現れ、これによって支持され、これに基づくものである(12)。それは、その理論的からわれわれにとってはじめて絵空事でない理論であり、実現することが不可能ではないと思われていた理論である。このように理論的、経験的に可能な範囲で成り立つという点でも、科学的決定論は形而上学的決定論とは一線を画し、強力である(13)
 また、形而上学的決定論が定性的な主張であるのに対し、科学的決定論は定量的な主張であるという点は、科学的決定論を論じる際に決定的である。これまで、決定論はおもに哲学者たちによって主張されてきたために定性的な議論にとどまっていた。しかし、定性的な理論にとどまるかぎり、その脅威と限界は見えてこない。むしろたんなる定性的な議論はときとして欺瞞的である(14)。定量的でなければ、科学的決定論はわれわれにとって脅威ではない。しかし科学的決定論は定量的であるがゆえに、たんなる予知の可能性の存在以上のことを主張している(15)。このため、近代の多くの物理科学者たちだけでなく、カントなどの哲学者の心も奪う力をもっていた。しかもここで注意すべきは、算出可能性の原理が言及しているのは理論の帰結としての予測の算出可能性ではなく、予測の前提条件としての初期条件の算出可能性である。予測の算出可能性ならば、これまでも決定論の特徴として挙げられたことがあるが(16)、ポパーは初期条件の方に着目することによって、科学的決定論を認識論の問題としてではなく、方法論の問題として論じることを可能にしている。
 このように算出可能性の原理は初期条件の精度を問題にするが、このことの重要性は、例えばカオス理論における初期条件に対する敏感さなどによって如実に示されている。科学的決定論は、初期条件の精度と予測の精度のあいだの関係は一次関数的であると想定していた。つまり、初期条件の精度を多少変えても、予測の精度が量的に少し変わる程度で、そのさい予測の内容は質的にたいして変わらないと想定されていた。したがって、初期条件の精度を連続的に上げていくことにより、予測の精度も連続的に上がり、理想として決定論的な完全な予測に限りなく接近できると考えられていた。このように考えるからこそ、科学的決定論者は絶対的精確さは示せなくても、それへの接近の可能性に訴えることができたわけである。しかしカオス理論によれば、多くの自然現象において初期条件と予測のあいだの関係は指数関数的(または対数関数的)であり、非線形である。つまり、初期条件の精度を変えると、予測の精度ではなくて、予測の内容そのものが質的に大きく変わってまったく別ものになってしまう可能性がある。こうなると、算出可能性の原理は決定的な意味を持ってくることがわかるだろう。初期条件の精度が算出できなければ、予測の度にまったくことなる答えが得られることになり、科学的予測そのものがまったく使いものにならなくなってしまうかもしれないからである。

2.算出可能性の原理の限界

以上見てきたような算出可能性の原理を、ポパーは科学的決定論を論駁するために持ち出してきた。本稿の主たる目的は算出可能性の原理とポパーの方法論の接点を明らかにすることであるが、ここでは、この原理を利用したポパーの科学的決定論論駁の議論を簡単に見ておこう。

2.1.決定論擁護論の論駁

ポパーによれば、科学的決定論はきわめて強い主張であり、あらゆる現象についての予測が算出可能であると主張するものであるから、これを論駁するためには、算出可能でない反例をせいぜい一つ挙げるだけでよい(17)。もっとも技術的問題のために算出可能でない予測などいくらでもある。科学的決定論は現実の現在の科学を越えて、将来の科学の発展の可能性にまで言及しているので、科学的決定論を論駁するためには、算出不可能な予測についての現実の具体例を挙げるだけでは不十分かもしれない。その事例での限界が技術的なものであると説明されるかもしれないからである。このため、算出可能性に対して限界を、しかも原理的な限界を示す事例が必要だろう。
 算出可能性の限界についてのポパーの議論は、決定論を支持、擁護する議論を一つづつ論駁するというかたちで進行していく。ポパーはまず、人間の行動を研究すればするほど行動の予測を改良することができ、この改良には限界がないという議論を取り上げる。これに対して算出可能性原理の観点から、たとえば身体の動きが予測から数インチずれるかもしれないが、このずれを補正するためにどのような初期条件が必要かは分からないと論じる(18)。もっともそうした初期条件は神経系の精密な研究から得られるというならば、行動科学から議論が離れることになる。しかし神経系の生理学的な研究においても、神経細胞の反応を予測するための初期条件として生化学反応が発生する精確な限界温度を測定するという問題がある。つまり、温度とは基本的に平均値であり、望みの精度で十分精確に測定できるという値ではないからである(19)。ここで温度の精確な測定をさらに主張するためには、生理学を離れて物理学の領域に移らなければならない。ポパーはまた心理学からの決定論支持論も取り上げるが、「動機」とか「性格」などの心理学的概念を利用することは、行動を事後的に理解するためのもので予測に使われるものではないという(20)。これらのポパーの議論のひとつのポイントは、初期条件の精確な測定が困難だということではなくて、精確に測定することが予測の精度を改善することにはならないということである(21)。これはつまり、ここで論じられた人間諸科学の理論が物理科学のような決定論的な構造をもっていないということである。とすれば、人間科学の立場から科学的決定論を擁護することにはあまり意味がなくなる。
 しかしそれにもかかわらず、決定論的な世界像が崩壊しないのは、物理的世界が決定論的であるという考えによる。「もし物理的世界が決定論的で、物理学の領域で算出可能性の原理が満たされるならば、行動や心理学の領域での算出可能性を心配する必要はない。」(22)かくして、科学的決定論の最終的なよりどころは、物理学的決定論である。このため、ポパーは物理学においても算出可能性の原理が成り立たないことを示そうとする。

2.2.加速度測定の不確定性

算出可能性の限界を示すような物理学からの事例としては、現在のわれわれは量子力学における不確定性関係を直ちに思いつくだろう。この関係は基本的には、いかなる観測においても、観測対象に観測用の器具、装置、手段などを相互作用させるため、観測対象の客観的な状態を不可避的に乱してしまうという一般的な事態を厳密に定式化したものといえる。しかし、これには観測者という主観主義的な要素がまとわりついている。物理学における実証主義的、主観主義的傾向に反対し続け、量子力学から観測者を追い出すために、一時は不確定性関係を論駁しようとまでしたポパーにとって、自らの非決定論をこうした議論に基づかせるわけにはいかない。「ポパーのテーゼは、宇宙の非決定論は観測者の存在には依存しないということ、そしてそれは根本的に客観的だということである。」(23)このためポパーは、量子力学からではなく、古典力学から算出可能性の限界を論じようとする。
 議論の題材としてポパーはいくつか事例を持ち出してくるが、最終的な議論として、運動物体の加速度の測定にともなう不確定さを論じる。すでに述べたように、ある物体を能動的に観測、測定する場合、測定対象の状態を乱すことが避けられないので、ポパーは、ハイゼンベルクの思考実験とは対照的に、可視光線によっては感知されるほどには乱されないほど十分に重いマクロ的な対象を、その物体が放射するか反射する可視光線によって受動的に測定するケースを想定する。こうして観測者による状態攪乱の要因を排除する。ある物理系をかき乱すことなく測定するために、たとえば運動物体の加速度を測定するのに可視光線を利用する場合、ドップラー効果を利用して速度の変化を測定する。ここで加速度の測定を問題にするのは、たとえば物体の質量、ないしは質量比を計算するのに逆二乗法則を使わなければならないからである。ポパーによれば、加速度の測定のためには「有限であまり短くはない時間で区切られた二つの時点での速度を測定しなければならない。さもなければ、どのような認められる差異も観察できないだろうし、その結果、加速度の測定に失敗するだろう。しかしあまり短くない間隔をとると、加速度を精確な瞬間に帰することができなくなる。そしてたんなる平均の加速度になる。」(24) つまり周期と振動数の公式Δt=1/Δνとドップラー効果の公式λ=(v0−v1)/νから得られる式

ΔvΔt = λ
が、波長λのサイズで算出可能性の限界を示しているという。測定可能な光線の波長には下限──可視光線の場合、およそ10-6m──があるので、ΔvとΔtの両方を独立に好きなだけ小さくはできないというのである。そしてここから、測定する加速度に応じてΔtに適正値があること、そしてΔvにはそれ以上減じることのできない最小値があることを論じる。そしてこれらの論点から最終的に、次のように結論づける。「可視光線をもってしては、われわれのニュートン的系の中で、(望むままに精密に決定されるべき)ある瞬間でのさまざまな加速度すべてを望む限り精密に測定することはできない。したがって、物体の質量比を望むままに精確に決定することはできない。...このことは...古典物理学は算出可能ではないことを意味する。」(25)
 ポパーは量子力学における主観主義を嫌うあまり、観測者による状態の攪乱を排除するかたちで議論を構築しようとしてマクロの系を持ち出してきた。だが結果的には、ポパー自身も認めているように(26)、ハイゼンベルクの不確定性関係と類似した議論になった。もちろん、ポパーのこの議論が妥当かどうかは、ハイゼンベルクの議論の妥当性とはまったく別の問題である。とりあえずここでは、算出可能性には、ポパーの言うように、少なくともなんらかの限界があるということを認めておこう。というのもこれを認めることが、すでに触れたように、ポパーにおいて宇宙論と方法論のあいだの不整合を生じるように思われるからである。

3.算出可能性と反証可能性

3.1.決定論者ポパー?

反証可能性理論によって世界的にその名が知られるようになってからのポパーは、一貫して非決定論の立場をとってきた。ところが、科学哲学者として登場したての1930年代のポパーの立場は、決定論か非決定論かという点にかんしてきわめて微妙であり、この頃のポパーは決定論者だったと断じられる場合もある(27)。たしかに『探求の論理』には、たとえば次のような発言も見られる。

われわれは「因果律」とかなり類似した簡単な方法論的規則を立てる...すなわち、法則の探求、統一的な理論の探求を、われわれが記述できるいかなる事象に対しても諦めないという規則である。この規則によって研究者は自らの課題を確立する。物理学の最近の発展は法則をさらに探求することには(ある一定の領域で)意味がないということを示したので、これによってこの規則は無効にされたという見解は正しいとは思わない。(28)
ここでいう「物理学の最近の発展」とはもちろん量子力学のことである。ここに述べられていることは、まさに確率的な法則に決して満足できないでコペンハーゲン解釈を攻撃し続けたアインシュタインの考えと同じである。もっともこう言ったからといって、ポパーは明確に決定論の立場を表明していたわけでもなく、決定論が崩壊したことは一方では認めている(29)。正確に言うと、反形而上学的観点から、決定論にも非決定論にも異を唱えていた。しかしどちらかというと、「因果性をめぐる論争については、われわれは現在人気のある非決定論的形而上学の排除を要求する」(30)ということばからもわかるように、コペンハーゲン解釈に対する批判的見方のために、非決定論に対する批判的な意見がより目立つ。
 ところが、1940年代前半に執筆された『開かれた社会とその敵』では、次の引用からもわかるように、ポパーは完全に非決定論者になっている。
自然の斉一性として表されていようが、普遍因果律として表されていようが、いかなる種類の決定論ももはや科学的方法の必要な前提であると考えることはできない。というのも、すべての科学のなかでもっとも進んだ物理学は、この前提なしでもやっていけることを示しただけでなく、ある程度まではこの前提と矛盾することも示したからである。決定論は予測を立てられる科学の必要な前提要件ではない。したがって、科学的方法は厳密な前提の採用を支持するとは言えない。科学はこの前提なしでも、厳密に科学的でありうる。(31)
そしてこの非決定論者としての姿勢は、その後変わることはなかった。ここではポパーがなぜ決定論的な立場から非決定論な立場へ変わったのかよりも、なぜ初期のポパーは決定論的な立場を取っていたのかということが問題である。
 ポパーが初期に決定論者ととられかねない発言をしたのは、すでに見たように、一部には反実証主義、反道具主義の現れであっただろう。しかしもうひとつの要因として、ポパーが当時反証可能性の理論を強力に主張していたということが挙げられるのではないだろうか。つまり、反証可能性理論そのものに決定論と通じる部分があったのではないかと思われるのである。

3.2.反証可能性と決定論

これまでの叙述が示唆しているように、科学的決定論を特徴づける算出可能性の原理は、ポパーの方法論の核である反証可能性の基準によく似ている。算出可能性の原理は言い逃れを禁じる原理であり、これによって科学的決定論の経験内容が豊富になるものであった。一方、反証可能性の基本的な発想は、「もしだれかが科学理論を提起したら、彼はアインシュタインがしたように、次の問いに答えるべきである。『どのような条件のもとでその理論が維持できないと認めるのか。』言い換えると、どのような考えられる事実を、自分の理論の反駁ないしは反証として受け入れるのか」(32) というように、実験の前に条件を特定することにある。このように言い逃れを許さないという点において、算出可能性の原理と反証可能性の基準は同じである。別の言い方をすれば、算出可能性の原理は反証可能性のアド・ホックな回避を禁じる方法論的守則に対応して、量の面での言い逃れを禁じているのである。
 しかし算出可能性の原理と反証可能性の基準が内容的に重なるとすると、前者を本質的特徴とする科学的決定論と反証可能性の関係が微妙になってくる。事実、反証可能性は文字どおりに解釈する限り、かなり決定論的な意味合いを含んでいると言える。たとえば反証可能性を補強する議論として、ポパーは自然法則が禁止を述べていることを挙げているが(33)、禁止を極限まで推し進めれば、すべてが決定されることになる。このことは、「『自然法則』とは経験の導きのもとでわれわれの期待に課される制限である」(34)とするマッハの考え方に照らしてみるとよりいっそうはっきりする。現象が禁止されれば、当然それだけ期待は制限されるが、この制限をどんどん推し進めていけば、期待に反する現象がそれだけ少なくなっていき、偶然の入り込む余地が制限され、それだけ現象は決定されていくことになる。これは、確率法則がいかなる個々の事象も100パーセント禁止していないことを考えれば明らかである(確率言明については3.4を参照)。このように法則を禁止ととらえる考え方には、決定論的な思考に通じる部分がある。
 もっとも、反証可能性と決定論のこうした親密さには理由がある。ユルモによれば、決定論には次のふたつの意味がある。ひとつは、現象のメカニズムを解明するための方法論的要請としての決定論であり、現象を連続的に記述して微分方程式によって表わそうとするのはこの要請による。そしてもうひとつは、要請としての決定論を無謀にも宇宙全体に外挿した形而上学的仮説としての決定論である(35)。「およそ1820年ころからしか使われていなかった決定論という言葉は、もともとは、機械の動きの完全な説明を意味していた。そして宇宙の決定論が登場したのは、ラプラスやポワソンのような科学者の業績によって宇宙そのものがひとつの機械と見なされるようになったからにすぎない。」(36) 少なくとも前世紀までの近代科学では、現象を完全に解明しようと試みる場合の導きの糸として決定論的な観点が要請されていたのであり、これによって完全な因果的説明が得られることになる。『探求の論理』に見られる反証可能性と決定論の親近性は、明らかにこの方法論的要請が原因である。
 さて、反証可能性理論と決定論の関係が以上のように密接であるとすると、反証可能性と非決定論を同時に主張するポパーは、内的不整合に陥るのでないかという問題が生じてくる。この問題を解くためには、まずポパーの議論を整理する必要がある。

3.3.整合性の解明

ポパーの議論を簡略にしてその論理構造を明らかにしてみよう。ポパーの科学的決定論批判の基本的な論理形式は、以下のようになっている(命題中での「成り立つ」は「普遍的に成り立つ」こと、つまりすべての科学理論について成り立つことを意味するものとする)。

  科学的決定論が成り立つには算出可能性原理が成り立つ必要あり (1)
  算出可能性の原理は成り立たない               (2)
 ───────────────────────────────
  したがって科学的決定論は成り立たない            (3)
つまり、「算出可能性の原理が成り立たなければ、科学的決定論は成り立たない」という否定式をポパーは主張している。すると明らかに、これから、以下のふたつの命題はでてこない(文頭の×印は命題が妥当でないことを示す)。
×科学的決定論が成り立たなければ算出可能性原理は成り立たない (4)
×算出可能性原理が成り立てば科学的決定論も成り立つ      (5)
(4)は大前提(1)の裏であり、(5)は(1)の逆である。ここで、(4)と(5)の算出可能性の原理を、これと内容的にかなり重なり合う反証可能性の基準で置き換えると、次のようになる。
×科学的決定論が成り立たなければ反証可能性基準は成り立たない (6)
×反証可能性基準が成り立てば科学的決定論も成り立つ      (7)
この(6)と(7)がポパーの議論からは導きだされないのだから、反証可能性の基準を主張しつつ非決定論を主張することには、少なくとも論理的な不整合はないと言える。
 もっとも、この算出可能性原理と反証可能性基準の置き換えが成り立つとすれば、ポパーの議論から次の命題は導きだせる。
 科学的決定論が成り立てば反証可能性基準も成り立つ           (8)
 反証可能性基準が成り立たなければ科学的決定論は成り立たない (9)
ここで、「科学的決定論」を「完全な因果的説明」と読み替えてみると、おそらくこれが反証可能性基準を提起した際にポパーが同時に主張した「因果的な説明の探求を諦めない」という方法論的決定論の意味するところであろう。可能なかぎり不確定要因を排除して、完全な因果的説明を追い求めていけば、その結果として反証可能な説明が得られる。科学者はこれをテストするわけである。逆に、たとえば溺れた子供を助ける行為も見捨てる行為もどちらも説明できる理論のように、ある説明が反証可能でないならば、それは因果的説明としては不十分なのである。
 ここで、算出可能性の原理も反証可能性の基準もともに科学的決定論にとっての十分条件ではないことが重要である。さもなければ、反証可能性を主張することによってただちに科学的決定論が含意されてしまうから、そこで非決定論を主張することはただちに不整合を生じてしまうだろう。しかし実際には算出可能性も反証可能性もともに科学的決定論の必要条件として据えられているのだから、これら二つが科学的決定論の成立について含意することはなにもない。そして算出可能性の原理も反証可能性の基準も決定論の十分条件でないことは、次の確率言明について明確に見て取れる。

3.4.確率言明の反証可能性と算出可能性

以上の議論から少なくとも反証可能性の基準と科学的決定論批判のあいだには不整合はないことが明らかになったが、ここから言えることは反証可能性基準を決定論的に解釈すべきではないということである。実際、もし算出可能性の原理が厳密に普遍的に成立しないならば、このことは確かに科学的決定論が成り立たないと同時に、反証可能性の基準も厳密に普遍的に成り立たないことを含意する。しかしそれでも科学が成り立ち、その科学の理論に対して反証可能性の基準が成り立つとするならば、反証可能性は非決定論的な世界でも成り立つと言わなければならない。そしてこのことを明確に示しているのが、確率言明の反証可能性の問題である。
 確率言明が存在することは非決定論の必要条件である。しかし十分条件ではない。確率言明の主観的解釈をとれば、確率はわれわれの無知に帰せられるので、確率言明の存在は決定論と両立する。だが、傾向性解釈によって確率言明の客観性を主張するポパーにとっては、確率言明は知識の状態には関係なく確率言明は客観的な事態を記述しているのであり、それゆえこれの存在は非決定論にとって必要十分条件である(37)。したがって、確率言明の反証可能性が示せれば、反証可能性と非決定論が両立することが示せる。
 確率言明の反証可能性の問題は、二つに分けることができる。一つは、単称確率言明の反証可能性の問題である。つまり、「次にサイコロを振った時に6の目が出る確率は6分の1である」という命題は反証可能であるかどうかという問題である。もう一つは、確率を評価するための事象の範囲の問題である。たとえば細工をしていないサイコロならどの目も等しく6分の1の確率ででてくるはずであるが、たとえ10回続けてある目が出ても、確率言明は厳密に論理的にこうした事象を排除していない。
 まずはじめの問題から見てみよう。単称確率言明に対しては傾向性解釈が典型的に適用できるのであるが、ポパーも明確に認めているように、この言明は明らかに反証可能でもテスト可能でもない(38)。たとえある事象の生起が99.99パーセントの確率で予測されていても、次回の試行でその事象が生起しない可能性は論理的には決して排除されていない。そしてそれゆえに、単称事象に関する確率予測言明は、算出可能でもない。確率的な予測がある一回の試行ではずれても、初期条件の精度を責める必要はない。たとえ何万回かに一回の頻度でも、そういうこともありうるというだけで十分である。そしてこの意味では、確率法則で単称事象を因果的に説明するのは、厳密に論理的に言えば不可能であり、どうしても曖昧さが残る(39)。これが、因果的説明の際に方法論的決定論が要請される理由の一つであろう。
 では、次の事象系列についての確率言明の反証可能性の問題はどうであろうか。この問題は前の問題と密接に関連している。たとえ確率がきわめて小さいことが連続して起こっても、その一つ一つの事象が確率言明によって厳密に排除されていないのだから、その連言で表される事象系列も、たとえどれほどその確率が小さくても厳密に排除されない。しかし、確率言明をこのように無節操に解釈すると、結果として確率言明から何でも言えてしまうことになりかねない。こうした問題に対するポパーの答えはこうである。

確率仮説は無制限な適用によって完全に何ごとも述べなくなってしまう。物理学者は、確率仮説をこのような仕方では利用しない。それゆえ、われわれは結果を、つまり再現可能な規則性を、累積された偶然に決して還元しないという方法論的決断によって確率言明の無制限な利用を排除する。(40)
ここで述べられている決断は、アド・ホックな反証逃れをしないという方法論的守則と基本的に同じ性格のものである。実際、確率言明はこういう決断による約束を設定しない限り、決して反証可能ではありえない。だが、確率言明を反証可能として扱うルールは、実際に統計学の仮説検定の手続きに見いだすことができる。
 統計学における仮説検定では、あるなんらかの事象を禁止するような仮説Hを立てて、その元で調査を行い、その結果Hが禁じているような確率が極めて小さい現象が起こった時にHを棄却するという手続きをとる。この場合仮説を棄却する基準となる確率は、有意水準とも呼ばれるが、客観的に決まっているわけではなく、検定に先立ってあらかじめ取り決めておくもので、ふつうは5%や1%が利用される。この検定の思想を、たとえばサイコロについての簡単な例で見てみよう。一般に、ある事象の起こる確率がPで、n回の試行のうちその事象がr回起こる確率P(r)は、
P(r) = nrPr (1 - P)n-r
で定義される二項分布に従う。ここであるサイコロについて、「これは細工のほどこされてない完全に対称的なサイコロである」という仮説Hを立てたとしよう。その上でこのサイコロを例えば10回振って、この仮説を検定してみる。その際、あらかじめ有意水準として5%を設定しておく。ここでpは1/6である。すると、たとえば10回の試行のうちある特定の目が各回数でる確率を上の式に基づいて計算すると、(小数点以下第5位四捨五入)
100(1/6)0(5/6)10-0 = 0.1615
101(1/6)1(5/6)10-1 = 0.3230
102(1/6)2(5/6)10-2 = 0.2907
103(1/6)3(5/6)10-3 = 0.1550
104(1/6)4(5/6)10-4 = 0.0543
105(1/6)5(5/6)10-5 = 0.0130
106(1/6)6(5/6)10-6 = 0.0022
107(1/6)7(5/6)10-7 = 0.0002
108(1/6)8(5/6)10-8 = 0.0000
109(1/6)6(5/6)10-8 = 0.0000
1010(1/6)10(5/6)10-10 = 0.0000
となる。するとある特定の目が5回以上でた場合、その確率は有意水準を下回っているのでHを棄却することができる。また、有意水準として1%を設定した場合は、ある特定の目が6回以上出た場合に仮説Hを棄却できる(41)。 統計学における仮説検定の理論は、今世紀初等から30年代にかけて、ピアソン、ゴセット(スチューデント)、フィッシャーらの手によって確立された。したがって、ポパーが『探求の論理』を執筆した当時はまだこの理論は胎動期で、ポパーの思想とは独立に形成されたわけである。統計的検定は方法論的反証可能性の考えに基づいており、統計学者によって検定が広く受け入れられたことは、反証可能性の考え方を強力に裏書きしていると言える(42)
 有意水準は仮説を棄却することが誤っていること──第一種の過誤──の危険性を表すという意味で危険率とも呼ばれるが、この検定手続きで重要なのは危険率をあらかじめ計算することである。第一種の過誤が重大な問題を引き起こすような状況で、仮設の棄却に納得がいかなければ、危険率をより厳しく設定し直して、試行回数を増やして偶然の入り込む余地を減らして検定をやり直すことができる。このように、統計学ではあらかじめ危険率を算出してからテスト(検定)を行い、そのテストを改良できるという意味では、統計的仮説は算出可能である。統計的仮説は実用上あらかじめそれを棄却する際のリスクの範囲を計算して、その上でテストにかける。そして、試行回数を増やすことによって統計データの精度を上げ、これにともなって危険率を引き下げることによって、仮説検定の精度を上げることができる。このように算出可能なようにしておくために、統計的仮説は反証可能(棄却可能)であり、また改良可能である。このように決定論的でない統計的仮説に対しても算出可能性および反証可能性が成り立つのであるから、この点でも両者は決定論の十分条件でないと言える。
 統計的仮説が反証可能なのは、その仮説の論理的な属性のためではなく、反証を可能にする規則、規約、取り決めのためである。字義通りに解釈すれば、確率/統計的言明はいかなる事象も禁止していない。しかし仮説検定のルールを設定すれば、有意水準以下の棄却域の事象の生起を禁止している言明として扱うことができるのである。だが論理的属性からだけでは、確率/統計的言明は決して反証可能ではない。このため単称確率言明についてはこうした規則が適用できず──というよりも適用しても意味がないため──、その論理的属性が前面に出てきてしまうために、この言明は反証不可能なままにとどまるのである。これは、標本がたった一つでは母集団の推定が不可能であるのと同じ事態である。

3.5.非決定論的反証可能性

こうして確率言明も反証可能性であることが示されたわけだが、このことは、反証可能性を決定論的に解釈することは妥当でないということを意味している。先に見たように、反証可能性の考え方には確かに外見上決定論と親密なところがある。しかし、世界が非決定論的であるならば(43)、反証可能性も基本的に非決定的な法則にこそ適用されると考えるべきである。だから反証可能性は根本的に決定的(conclusive)ではないのであり、このことは反証可能性理論にとってなんら欠点でも弱点でもない。反証可能性の基準が決定的かどうかを問題にする批判には、いつでもこれを決定論的に解釈する考え方がその背後にある。もっとも、こうした類の批判を招いた原因の一端は、反証可能性の定式化の仕方にもある。
 反証可能性についての理論的考察は統計的でない法則から出発している。ポパーは反証可能性理論の伏線として科学的説明の構造を論じる際に、たいていはヘンペル-オッペンハイム流のD−N(Deductive-Nomological)モデルと基本的に同等の形式的な論理図式を持ち出してくる(44)。だが、このD−Nモデルが適用できる理論は、「ある物理理論によって記述される閉じた物理系の初期状態についての数学的に厳密な記述から、未来のある与えられた時点での系の状態についての記述を、正確さの限度がどのように定められても演繹することができる」(45)ような見かけ上(prima facie)決定論的な理論である。一般に微分方程式で表される法則は、初期条件に相当する数値を代入してこれを解けば、解が一義的に決まるので外見上決定論的である。こうした外見上決定論的な理論は、先に見た方法論的決定論の要請に基づいて構築されたものである。こうした反証可能性のモデルは、そのような決定性を持たない統計法則に基づくI−S(Inductive-Statistical)モデルと好対照をなしている。また、このD−Nモデルが極度に単純化されて、形式論理的な否定式によって反証可能性が説明されるようになると、あたかもたったひとつの反証事例が理論を反証すると主張しているかのような印象を与える元にもなった。そして、検証事例をいくら積み重ねても法則が真であることを確定できない検証可能性に対して、たったひとつの反証例で法則が偽であることが決定的に確定するというこの決定性が、反証可能性のメリットであると誤解された。反証可能性はひとつのアルゴリズムを提供していると誤解されたのである。
 たしかに、論理は批判のための強力な道具であり(46)、D−Nモデル流の論理図式や形式論理的な否定式などによって反証可能性の基準を説明することは、反証の手続きの理解に役立った。問題はこれの解釈にある。極度に単純化された形式的論理図式のために、反証可能性に対する理解が過度に単純化されてしまい、検証可能性原理が決定的でないなら反証可能性基準も決定的ではないという批判や、理論を倒すのは事実ではなく理論であるという批判を招いた。とくに「存在言明は反証可能でない」といった批判は、まさに反証可能性を典型的に形式論理的な側面からだけしか見ない決定論的な批判の最たるものだと言える。
 たしかに、反証可能性が形式論理的なことがらであるのなら、それが決定的かどうかを問題にするのは的を得ていよう(47)。しかし、ある理論を論理的に分析してそれが反証可能であるかどうかを一義的に決定することはできないので、ポパーはこのことを認めた後で、規約主義に対して反証を回避しない規則の決断を提起している(48)。しかし反証可能性をこのように論じる場合、反証可能性の基準は本来論理的なことがらであるが、現実の状況が複雑であるから、この基準を補うために反証を回避しない約束主義的規則を導入したという見方を生じさせてしまったようである(49)。しかし反証可能性に対するこのような見方は、まさに「世界は本来決定論的であるが、現象が複雑でその実態を完全に知ることができないから知識の不完全さを補うために確率を導入する」といった確率の主観的解釈(50)ときわめて酷似している。どちらも、その背後に決定論的な見方が隠れているのである。
 見かけ上決定論的な理論が記述する世界が決定論的であると推論する根拠はなにもない(51)のとまったく同様に、反証可能性の理論が決定論的に定式化されたからといって、その内容が決定論的でなければならないとする根拠はなにもない。古典力学は現実の世界を単純化し、理想化したために外見上決定論的な理論になった。同様に、反証可能性理論に決定論的性格が付随したのは、論理的な過度の単純化のためである。統計的仮説を棄却することにも受け入れることにも常にある危険性がともなっているのと同様に、反証を受け入れるにせよ退けるにせよ、常になんらかの危険性がともなう。これは、いかなる反証も決定的ではありえないのだから、当然のことである。
 反証可能性は、アルゴリズムではない。反証可能性の本来の意義は、理論が未知のことがらに対して開かれているかどうかというところにある。ある理論が未知のことがらや不都合な事態に遭遇して既存の自らの殻に閉じこもったり、また自らに好都合な確認例に浸って自己満足に陥ったりするのではなく、不都合な事態を糧にして未知の領域にのりだす用意があるかどうかが問題なのである。そのさい、反証が決定的かどうかということはあまり問題ではない。そして未知の領域にのりだすのは、理論を改良し、知識を改良するためである。すでに見たように、科学的予測は算出可能であるために改良可能である。初期条件をあらかじめ算出することによって、条件をどのように変えると予測がどのように変わるかを漸次的にシミュレートすることができ、失敗をフィードバックすることができるからである。他方、占星術やヒストリシストの予言などは算出可能ではないため、予言が外れた時に根本の教条を守る術は山ほど持ち合わせていても、予言が外れたという未知の、不都合な事態を糧にして基礎理論を漸次改良していく術はない。こうした占星術やヒストリシズムを批判すること(52)でポパーが示そうとしたことは、放っておけば人は確認例しか見なくなり、反例、つまり未知の事態によって知識を改良、改善することを忘れてしまうということである。これは、いかなる反証も決定的ではないだけになおさらである。