3.1.ポパーの量子論のとらえにくさ
とはいっても、正直にいって、ポパーの量子論はたしかにとらえにくい。もちろん、フランクフルト学派の意味不明な「大言壮語」を手厳しく批判した(2)ようなポパーが難解な表現を使うはずもなく、たしかに文章そのものは、あいかわらず平易、明快である。結局、そのとらえにくさには、問題状況もからんだ複雑な要因が絡み合っていることによるのである。ここでは、その要因をひとつずつ解きほぐしていこう。
(1)一般的な対立図式:ポパーの量子論のとらえにくさの第一の要因として、それが量子力学論争の一般的な対立図式ではとらえられないという点が挙げられる。
量子力学には深刻な哲学的論争がつきまとっており、その論争も詳しく調べてみるとかなり錯綜したものになっていることがわかる。しかしこの論争をあえて単純化してみると、それはボーアを中心とするコペンハーゲン解釈とこれに反対する物理学者たちの対立ととらえることができよう。その対立点を、細かい部分は切り捨てて、ごくおおまかに論点だけを浮き彫りにしてみると、次のように図式化できるだろう(3)。
コペンハーゲン解釈 | 反コペンハーゲン | |
科学哲学的立場 | 道具主義的 | 実在論的 |
認識論的立場 | 主観主義的 | 客観主義的 |
世界観的立場 | 非決定論的 | 決定論的 |
確率の見方 | 理論の本質的要素 | 計算上の道具 |
量子論の性格 | 完全で統計的 | 不完全 |
(2)決定論に対する態度:この、ポパーが哲学的思索を開始してから一貫して攻撃してきたのは、道具主義的、主観主義的な哲学であるということは、重要なポイントで、この哲学を攻撃するために、若いころポパーは、一時、決定論的なポーズを見せていたことがある(5)。そして、このこともまた、ポパーの量子論をとらえにくいものとしているひとつの要因である。
『探求の論理』を執筆した一九三○年代当時、ポパーはハイゼンベルクの不確定性関係を論駁しようとした。この論駁も、主にこの不確定性関係の解釈に潜む主観主義的な要素に対して向けられていたものであるが、その議論を展開する際に、非決定論に反対するように見える次の主張を述べている。「<因果性>をめぐる論争については、われわれは、現在人気のある非決定論的形而上学を排除することを要求する。これがごく最近まで物理学者のあいだで支配的であった決定論的形而上学と異なるのは、明確さがより大きくなったことではなくて、その不毛さがより大きくなったことである。」(6) ポパーは、ハイゼンベルクの不確定性関係は、「粒子の位置を正確に測定すればするほど、粒子の運動についてわれわれはますます知ることができなくなる」ということを述べているとする主観的な解釈に対して、この公式は状態の準備の限界を示している客観的な統計的分散関係(statistical scatter relation)を表したものであると考えた(7)。この客観的解釈そのものは、決定論とは直接関係はない。しかしそもそも、現代の量子力学が非決定論的であると見られるようになったのは、この不確定性関係が「現在を正確に知ることができれば、未来を正確に予測できる」というラプラスの決定論の原理の前件が成り立たないこと示したからで、この不確定性関係を批判するということは、そのまま決定論の立場に立つことと見なされてもしかたがない。実際に、「神はサイコロを振らない」といって決定論を支持していたアインシュタインは、ソルヴェイ会議で、不確定性関係を論駁するための思考実験をボーアにつきつけている。それゆえ『探求の論理』では、明確に決定論を支持するとも述べていないが、ポパーが一般に決定論者と見なされてしまった可能性がある。
ポパーは、この不確定性関係を論駁するための思考実験において、本人も認める誤りを犯した(8)。この誤りは、彼の傾向性理論に基づいた量子論そのものとは直接の関係はないが、量子力学論争に参加するポパーの意欲を一時萎えさせてしまい(9)、社会の混乱や亡命のためにポパーの関心が一時、社会科学の方面に向いたこともあって、その後しばらくポパーは量子力学について語らなくなってしまった。
戦後になって、ポパーは確率と量子論について再び思索を始め、一九六七年に彼の量子論の決定版とも言える「観測者なき量子力学」を発表している。ところが、この論文がポパーの量子論に対する誤解を生む種になってしまった。以上述べてきた要因は、ポパーの量子論をとらえるうえでの主たる困難ではない。私の見るところでは、ポパーの量子論のとらえにくさは、実は彼の議論そのもののにある。
3. 2.「観測者なき量子力学」と『量子論と物理学の分裂』
「観測者なき量子力学」(Quantum Mechanics without 'the Observer')は、『科学的発見の論理』のあとがきとして出版された三巻本の第三巻『量子論と物理学の分裂』に、この本の序論として再録された。この序論には、一九八二年に書かれた「はしがき」が先行し、そして本文がつづく。しかし、実際にこの文献に目を通してみると、「観測者なき量子力学」は、二一一ページのうちおよそ六○ページを占め、この本の序論などではなく、むしろ本論として通用する本格的な議論になっており、実際にポパーに対する批判者たちも、主にこの論文を相手にしている。そしてこれに続く本文の方こそ、その内容から言って、『科学的発見の論理』ではなくて、この「序論」に対するあとがきのような性格をもっていると言える。そこでここでは、この「観測者なき量子力学」で展開されている議論をたどることによって、ポパーの議論の道筋を明らかにしていこう。
「観測者なき量子力学」では、はじめに論争の状況などが概観され、再録時に付加された若干の補遺があるが、その主たる論点は一三個のテーゼにまとめられている。
第一から第四までのテーゼでは、量子論をどのような性格をもった理論であると見なければならないかが示され、この観点から量子力学における哲学的論争の混乱の原因が究明される。まず第一のテーゼで、量子力学の理論が解こうとしている問題は、本質的に統計的な問題であるということが主張される(10)。ポパーによれば、プランクが取り組んだ黒体輻射の問題、アインシュタインが提案した光量子仮説、ボーアが取り組んだ原子スペクトルの問題、原子の安定性の問題などはみな統計的な問題であった。この主張はこの後の議論の前提となる重要なテーゼである。次の第二のテーゼで、統計的な問題は統計的な回答を要求することが主張され(11)、続く第三のテーゼは、「量子論の確率的な性格を問題の統計的な性格ではなくて、知識の欠落によって説明しなければならないというのは誤った考えである」(12)となる。そしてこの誤った考えの結果、われわれは量子論の泥沼に直面している、というのが第四のテーゼである(13)。
この第一から第四までのテーゼ、とくに第三のテーゼは、実は、コペンハーゲン解釈の立場と、アインシュタインらを筆頭とする反コペンハーゲンの立場の両方に対して向けられた批判であると考えられる。というのもポパーによれば、コペンハーゲンの見解でもアインシュタインの見解でも、「どちらも、確率的ないしは統計的理論はわれわれの主観的知識を利用しているとか、知識の欠落を利用しているとか思い込んでいる」(14)からである。後で見るように、量子論には二重スリット実験や波束の収縮のような確率的にしかとらえようのない単一事象が存在する。量子力学草創期の今世紀前半では、客観的確率解釈と呼べるものは相対頻度理論しかなかったが、この理論ではすでに見たように、単一事象の確率について客観的に語ることはできない。しかも当時は、決定論的世界像が物理学者のあいだで支配的であったため(15)、こうした現象を確率的にしか記述しない量子力学の理論が、主観主義的に解釈されてしまったのである。こうして、コペンハーゲン解釈には「観測者」や「意識」などの主観主義的概念が侵入し、アインシュタインはこの主観主義のゆえにコペンハーゲン解釈を批判した。しかしポパーは、このどちらも量子力学を主観主義的にとらえるという誤った前提にたっていると、この第三のテーゼで主張している。
このように、ポパーは論争の前提から批判しているので、この意味で通常の量子力学論争の対立図式に乗せられないのである。
第五から第七までのテーゼは、ハイゼンベルクの不確定性関係についての主張である。第五のテーゼは、ハイゼンベルクの公式は量子論から妥当に導きだせる統計的公式、統計的分散関係である(16)、という主張であり、第六のテーゼは、ハイゼンベルクの公式を含む量子論の法則は、位置と運動量をもった粒子の集団についての法則である(17)、という主張である。そして第七のテーゼによって、第五と第六のテーゼの内容は、すべてハイゼンベルク自身によっても認められているということが主張されている(18)。これら三つの主張は、失敗した思考実験以外の部分で、『探求の論理』で主張された内容と同じである。
第八から最後の第一三までのテーゼは、ポパーの量子論の核心部分であり、批判や論争の的になっている部分である。
第八のテーゼは、「量子力学の形式の解釈の問題は、確率計算の解釈の問題と密接に結びついている」(19)というものである。このテーゼは第三のテーゼと関連しており、確率の主観的解釈をしりぞけ、客観的解釈を採用することによって、量子力学の解釈の問題に対する道が開けるという内容である。ここでポパーは、確率の傾向性解釈を詳細に説明する。ここではとくに、傾向性が実験の条件に依存する実在であるという点が強調される。そして、われわれは実験の条件を変えることによって、傾向性を変えることができること、つまり傾向性を「蹴る」ことができるし、傾向性は「蹴り返す」ことができるということを直観的に説明するために、ピンボードとパチンコ玉の事例をもち出している。ところがこの事例は、実はポパーの量子論のアキレス腱であり、ここに批判のほとんどが集中しているといっても過言ではない。
3.3.ピンボードとパチンコ玉
このピンボードとパチンコ玉の事例は多くの誤解を生んだ微妙な個所なので、できるだけポパー自身のことばに即して話を進めていこう。まず、事例の基礎となるピンボードをポパーは次のように描き出している。「たとえば、多数の小さな玉をころがせば、これらの玉が(理想的には)正規分布曲線を描くように作られている、ふつうの対称的なピンボードをとりあげてみよう。この曲線は、ある可能な停止位置にまで到達するひとつひとつの玉を使った個々の単一の実験にとって、確率分布を表す。」(20)
次にポパーは、傾向性を「蹴る」(kick)場合を描き出す。「さて、たとえばこのボードの左側を少し持ち上げるなどして、このボードを「蹴って」みよう。すると、われわれは傾向性も──確率分布──も蹴ることになる。というのも、どんな単一の玉も、ボードの底の右はしの方の点に到達することが若干起こりやすくなるからである。そして、傾向性は蹴り返す。玉をころがし、それを積み重ねていけば、玉によって描かれる曲線は、違ったかたちになるのである。」(21)
また、別の蹴り方も示す。「あるいは、ボードを傾ける代わりに、ピンをひとつ取り去ってみよう。このことは、玉が実際にピンを取り去った場所の近くに来ようが来まいが、ひとつひとつの玉を使った個々の単一の実験での確率を変えてしまうだろう。」(22)
以上が、ピンボードとパチンコ玉の事例のすべてである。ここに述べられていることは、しごく当然のことであり、なんら批判を招くような部分はない。しかし、批判されたのは、このピンボードの事例そのものではなくて、この事例についてポパーが述べていることなのである。ポパーは、「このことは、二重スリットの実験と類似している」(23)という。実は、後で見るようにこの後に重要なただし書きがあるのだが、このひと言によって、ポパーは有名な二重スリットの実験をこのピンボードとパチンコ玉の事例によって説明しようとしているのだと、批判者たちから解釈されてしまった。
二重スリットの実験とは、たいていの量子力学の教科書に載っている有名な実験である。実験装置は、電子などの粒子を発射する装置とスリットのふたつある衝立、そしてその背後に感光版のスクリーンからなる。この実験では、スリットを両方開けている場合はスクリーンに干渉縞があらわれるが、片方を閉じたり、粒子がどちらのスリットを通ったかを確認する実験をすると、干渉縞が消える。この実験で特徴的なことは、両方のスリット開けた状態でも、電子ひとつづつを発射すると、感光した点しか現れず、干渉縞は現れないが、それらの感光点を重ね焼きすると、ふたたび干渉縞が現れるという点にある。この現象は、量子力学ではふつう次のように説明される。量子力学では、粒子の状態は波動関数ψで記述されるが、この波動関数には数学的に、
n ψ=ψ1 + ψ2 + ψ3 +%%%+ ψn =Σψi i=1
|ψa+ψb|2 =|ψa|2+|ψb|2+ψa*ψb+ψaψb*
3.4.ポパーの議論の問題点
しかしすでに述べたように、二重スリット実験は量子力学のどんな初歩的な入門書でも説明されている有名な実験であり、ここでの干渉現象は量子の粒子的性格では説明できないということは、ひろく知られた事実である。それなのに、量子力学論争に積極的に参加しようとしているポパーが、これほど初歩的な事実を見落とすことがあるだろうか。
ここで、さきに少し触れたピンボードとパチンコ玉の事例と、二重スリットの実験の類似性に言及したさいのただし書きがかぎになってくる。それは、「もっとも、ここでは〔ピンボードとパチンコ玉の例〕振幅の重ね合せはないが」(33)というただし書きである。
つまり、ポパーはピンボードとパチンコ玉の事例には、確率振幅の干渉現象を説明するものはないということを認めているのである。そしてこの文には、『量子論と物理学の分裂』の編者のバートリーの次のような脚注が付されている。
このただし書きによって、ファイヤアーベントは、ピンボードの確率は加算的であるが、振幅の重ね合せが見られる量子論では状況は加算的ではないといってポパーに異をとなえる前に...この論文を注意深く読んでいないことが明らかになる。以下の第九のテーゼでも、ポパーはピンボードについてこう述べている。『ここには、振幅の干渉はない。Δq1とΔq2のふたつのスリットがあるとき、ふたつの確率そのもの(その確率の振幅ではなくて)は、加算され、規格化されるべきである。二重スリットの実験を模倣することはできない。しかしこれは、この場面でのわれわれの問題ではない。』(34)
要するに、ポパーはピンボードとパチンコ玉の事例によって二重スリット実験の特異性を説明しようとはしていないのである。この例によってポパーが示そうとしたのは、たんに確率とは実験の要素(たとえば粒子)だけの属性ではなくて、実験装置全体の属性であるということである。しかし、ポパーはオーソドックスな量子力学解釈に対してオルタナティヴを提案しようとしているわけであるから、この二重スリット実験の特異性は説明しませんでは済まされない。では、この特異性をポパーはどのように扱っているのかというと、これについては粒子を説明の基本とするアルフレッド・ランデの議論に全面的に依存してしまっている。
このように、ピンボードとパチンコ玉では二重スリットの実験の特異性を説明できないというポパーの量子論に対する典型的な批判は当たっていないことがわかるが、それにしても、これでポパーの方に全面的に軍配をあげるわけにはいかない。そもそも、量子的現象に対するオーソドックスな解釈に対して異を唱えている者が、解釈の分かれ目になっている現象に言及し、そしてそれに似ている例は持ち出すが、それを説明する例は持ち出さないというのでは、肩透かしをくわしているようなものである。ポパーは、その広範な思索の範囲のなかで、何度かほかの理論家の理論に依拠しながら議論を進めることがある。
たとえば、有名なところでは、ポパーにとってもっとも重要な概念である真理についての議論は、アルフレート・タルスキーの議論に全面的に依存している。また、人間の言語の機能についても、ポパー自ら拡張を試みているとはいえ、基本的な部分では彼の師であるカール・ビューラーの説に依拠している。この点では、この量子論においてもアルフレッド・ランデの議論に依拠することは、別にかまわないことであると考えられなくもないが、しかしここはポパー自ら、少なくともランデの議論を敷延するだけでもしておくべきであった。過激な調子でコペンハーゲン解釈を批判し、粒子と波動の二元論まで否定していることを聞かされた読者は、それではポパーはこの難しい現象をどうやって説明するつもりなのかと期待するのは当然である。確かにポパーの論文を正確に読めば、ポパーがピンボードとパチンコ玉の例で干渉現象を説明しようとしていないことはわかるが、ポパーを批判している論者がみな一様にこの手の読み間違いをしているということは、ポパーのここでの議論の展開に問題があるということも示している。
この点については、ポパーの量子論を擁護しているバートリーも、次のように同様のことを述べている。「わたくしは、ポパーによる量子力学の客観的確率的説明には大幅に満足しているが、これだけではそのすべての困難を解消するのには不十分であることを注意しておく。この研究で議論された困難のひとつが、二重スリットの実験である。そこでポパーは、自らの確率的な説明をデュアンの第三量子規則によるランデの...動的説明によって補う必要がある。」(35) バートリーによれば、すでに述べたように、ポパーの量子論は一般に物理学者たちから無視されてしまっているが、ポパーが依拠しているランデの議論の方もあまりまともには取り上げられていない。したがって、ポパーの議論はいわばランデの量子論「人質」であり、その行く末は、ランデの議論の今後の評価にかかっている(36)。
4.傾向性と客観的世界像
4.1.波束の収縮
古典物理学や相対性理論と違って、量子力学には、現在でも理論家のあいだで解釈が決定的に異なる現象がいくつかある。ひとつは、すでに説明した二重スリットの実験であり、この実験は量子力学的現象の奇妙さをよく表わしている。もうひとつは、波束の収縮(contraction of wave packet)と呼ばれる現象である。
電子などの粒子の量子力学的状態は、すでに述べたように、波を表わす波動関数ψで記述されるが、一般に波は物質ではなくて空間的な広がりをもった物理現象である。しかし、量子力学的粒子は、観測されると必ず局在化した粒子として観測される。すると、その観測の時点では、観測した場所に粒子が存在する確率は1ということになり、ほかの場所での存在確率は0と考えなければならない。言うまでもなく、確率とは0以上1以下の数値であるが、観測によってあたかもこの数値が、0か1に突然変化してしまう。状態が重ね合わされているはずの波動関数が、
ψ → ψi
砂漠で兵士がポケット・ルーレット盤を与えられ、針をまわして止まるようにこのルーレット盤を設定し、針が止まったら針の示している方向に一分間だけ進むように指示されている。そして針を何回もまわして、針の方向に一分間だけ進むというこの行為を繰り返すように指示されている。この指示に基づいて、あらゆる方向に対する出発点から兵士の進行速度とともに広がる彼の確率分布が得られるということは、ただちに明らかである──中心が厚くて、周辺部が薄い一種の雲がえられるのである。...さて、一時間後に、ちょうどポケット・ルーレット盤を使っているときの兵士を観察してみよう。すると、古い雲は消え、われわれが兵士を観察した点から新しい雲が始まる、と言える。...これはまさしく、「波束の収縮」と同じものであり、このようなかたちで、確率論の個々のいわゆるマルコフ連鎖問題で起こるものである。(38)
また、ポパーはふたたびピンボードとパチンコ玉の事例を使って、次のようにも説明している。
〔玉が〕このピンに当たるというのが、われわれの事象aである。p(a,x)は、状況がxであるときに、この選び出したピンaに当たる確率である。...さて、傾向性解釈は、考慮している物理的状況の客観的な物理的属性であると見なし、究極的には、全物理的世界の属性であると見なす。したがって、事象aの客観的傾向性──p(a,x)、波束、状態ベクトルで記述される──は、玉があるピンの左に動こうと「決めた」ときにはいつも変わる。それが変わるのは、ひとつひとつの事象にともなって客観的にxが変わるからである。...われわれがその事象について(xの値について)「知らされている」かどうかということは、関係ない。われわれの知識なしにゼロになるかもしれないのは、aの客観的傾向性である。...このように、ここで変化するのは、物理的世界そのもの──傾向性──であり、その変化は、「状態ベクトルの収縮」によって記述される。(39)
ポパーがこれらの事例で述べていることは、いわゆる波束の収縮と呼ばれている現象は実はなんら量子力学の特異な現象ではなく、われわれが日常的に経験している確率的な現象となんら変わるところはないということである。ここで、ポパーは確率の傾向性解釈によって、ひとつひとつの粒子ではなくて、実験装置の全体に目を向けさせようとしている点に注意する必要がある。われわれの漠然としたイメージでは、たとえば、二重スリットの実験は、スリット板に玉が衝突するというように考えてしまいがちであるが、しかしスリット板も発射される電子と同じようなサイズのミクロの粒子から成り立っており、しかもその数は膨大である。発射された粒子がスリット板を通過する際に、ポパーの言うパチンコ玉がピンボード上のピンに当たる現象と同じように、スリット板を構成する多数の粒子と相互作用を起こして、確率のもととなる傾向性がマルコフ連鎖のように変化しているということも考えられなくもない。
4.2.傾向性の波
しかし、ほんとうのパチンコ玉をふたつ穴の開いたついたてに向けて発射するシーンを想像してみれば容易にわかることであるが、まったくの粒子では干渉現象は絶対に起こらない。それゆえここで単に、波束の収縮は通常の確率的な事象となんらかわるところがないとポパーが強弁するのは、明らかにむりがある。日常的な確率と量子力学的な確率には、やはり決定的な違いがある(40)。量子力学的現象に特有なのはこの干渉現象であり、この点で、すでに見たように、ポパーの思考実験には干渉を起こせるようなものがなにもでてこないことはポパー自身も認めている。では、二重スリット実験で干渉を生じさせているものは、一体なんであろうか。それは傾向性の波である。
すでに見たように、ポパーの量子論はかんじんなところでランデの量子論に依存しているが、ランデは粒子と波動の二元論的に甘んじているように見えるボーアの相補性原理の不徹底さを批判し続け、粒子像による実在についての統一的な描像を追及した(41)。この影響を受けて、ポパー自らもランデに賛意を示しながら、「わたくしは(粒子よりもはるかに)波動の方に深い愛着があるが、量子論はきわめて決定的な意味において粒子理論であり、...これは、粒子と波動の二元論、アナロジー、ないしは相補性を排除する意味においてそうなのである。」(42)と述べている。しかし、ポパーはランデよりは波動を重視し、「波動は(第二量子化の波動でさえ)、(実験上の設定のような)物理的状況の傾向性の、つまり性向的属性の数学的表現であり、ある状態をとる粒子の傾向性として解釈できる」(43)とする。実際、ポパーは波動の振幅が重ね合せられることを、傾向性が実在するという主張のひとつの論拠とさえ見なしている(44)。
ポパー自身は明確に述べてはいないが、ここで彼は、波動関数に対するひとつの実在論的解釈を与えていると解釈することができる。波動関数が実際になにを表しているのかは、量子力学解釈のひとつの重大問題である。波動関数ψは、数学的には
ψ=Ae =A(cos(k%r-ωt) + isin(k%r-ωt))
もともと波動関数は、エネルギーと運動量をプランク定数によって振動数と波長に関連づけた、物質波についてのアインシュタイン=ド・ブロイの関係式
ν = E/h, λ = h/p
|ψ(x, y, z)|2dxdydz=ψ(x, y, z)ψ*(x, y, z)dxdydz
波動が現象を便利な方法で記述したり、予言したりするのは「実在の」何ものかであるのか、あるいは作り話であるかは趣味の問題である。私は個人的には、たとえ3N次元空間においても、確率波を実在のものとみなし、確かに数学的計算のための道具以上のものであると考えるのを好む。それは観測の不変性という性格をもっているからである。それは計数実験の結果を予言できることを意味しているし、またわれわれが実際に同一の実験条件のもとで何回も実験をなすならば、同じ平均値、同じ平均的なずれなどを見出だすことを期待できるからである。全く一般的に、もしこの確率波の概念が現実的な、客観的な何かをさしていないとするならば、どうしたらわれわれは確率予言に頼ることができるのであろうか。(49)
「趣味の問題」と断じたのは、おそらく物理学者としての立場からであろうが、ボルンはやはり個人的には、波動を実在するなにものかとして理解しており、その根拠として、ポパーと同様にこの波動が自然についてなにごとかを知らせてくれるということを挙げている。そしてさらに、ポパーが傾向性について語るときとまったく同様に、「量子力学は客観的な外の世界におけるある状況を記述するのではなくて、外の世界の一部を観測するためにしつらえたあるきまった実験装置を記述する...この思想がなけれは、量子論における動力学的問題を定式化することさえ不可能である」(50)と述べている。つまり、波動関数は単一の粒子だけを記述しているわけではなく、実験の客観的状況を記述しているのである。
現在の量子力学の教科書には、たいてい「量子の確率的な振る舞いは、われわれの知識の欠如によるものではなく、量子の本質的な性格であることを理解しなければならない」という旨のことが述べられているが、確率についての古典的な解釈、とりわけ知識の欠如による主観的解釈では、こうしたことを本当に理解することはできない。確率のどのような解釈でも、二重スリットの実験での多数の電子の統計的な振る舞いを予測することができるし、説明することもできる。しかし、量子力学はたんなる統計的理論ではない。波動関数が与えているのは、ある点での粒子の数ではなく、その点に「ひとつの」粒子が存在する確率である(51)。こうした単一事象の確率に至るまで客観的に語れるのは、傾向性解釈しかない(52)。量子力学建設当時、電子の振る舞いの単一事象を説明しなければならなくなった理論家たちは、こうした単一事象について有意味に言及できる仕方として、知識の欠如という古典的な確率解釈しかもちあわせていなかった。そのため、どうしてもこうした単一事象を説明せざるをえなくなった場合に、主観的な解釈が侵入してしまったのである。こうした状態から、主観主義を駆逐し、量子力学的単一事象について客観的に語るための解釈が傾向性解釈であった。この意味では、量子力学解釈のかぎは確率解釈にあるとするポパーの第八テーゼが述べていることは正しいと言える。
ポパーが波動関数に与えようとした傾向性解釈は、ボルンが与えたような規則としての解釈ではなく、現象を理解しようとする試みであり、ある意味ではきわめて形而上学的な実在論的解釈である。かつてハイゼンベルクは、コペンハーゲン解釈に反対する立場を評して、次のように述べたことがある。「量子論に対するすべての反対者は、あるひとつの点で一致している。彼らは、古典物理学の実在の観念、あるいはより一般的に言えば、唯物論の存在論に立ち戻るほうが望ましいと思っているのである。」(53) しかし、実在論と唯物論はまったく異なる立場であり、ことにポパーの実在論は唯物論に反対する立場である。すでに3世界論からも明らかなように、ポパーは物質の存在だけでなく、精神の存在や知識の客観的内容の存在も認める。しかも通常の実在論とは異なり、次のことばからも分かるように、可能性すら実在と考えている。
...いまだ実現されていない可能性も、ある種の実在性を有している。可能性に付随する数値的な傾向性は、いまだ完全に実現されていない実在、つまり作られつつある実在のこうした状態についての測度として解釈することができる。(54)
このように、ポパーの傾向性による量子力学の実在論的解釈は、たとえば隠れた変数理論の背後にあるような決定論的な実在論的解釈などとはまったく異なるものである。
4.3.統一的世界像の探求
「物理学は知覚の間の関連だけを形式的に記述すべきであろう」(55)という実証主義的なコペンハーゲンの観点と、これに激しく抵抗し、「物理学の諸概念は、実在の外部世界に関係がある」(56)と主張したアインシュタンらの論争は熾烈をきわめた。しかし結局、コペンハーゲン解釈以降、物理学は実在についての描像を描くこと、つまり実在を理解する試みを、ある意味ではやめてしまったように思われる。初期の理論家たち、とくにボーアなど古典物理学の概念を使ってなんとか量子現象を理解しようと悩んだ世代にとっては、実在の理解を断念することは、苦渋の選択だったかもしれない。しかし、量子力学もある程度発展しだすと、好むと好まざるとにかかわらず、物理学研究の大勢は、理解可能な統一的世界像を構築することをやめてしまったようである。たとえば、量子力学の建設に大きく貢献したディラックは次のように述べている。
物理科学の主たる目的は、描像を与えることではなく、現象を支配する法則を定式化し、これらの法則を新しい現象の発見に応用する事である。もし描像が得られれば、それに越したことはない。しかし、描像が存在するかどうかということは、二次的な問題にすぎない。原子の現象の場合は、本質的に古典的な線に沿って機能するモデルが意味されている「描像」ということばのふつうの意味においては、いかなる描像も存在するとは期待できない。(57)
ディラックがここで述べているような風潮が、こんにちでも続いているということは、たとえば、アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンのパラドックスを最終的に解決したとされるアスペの実験について見て取ることができる。
ベルの不等式を確認すべく行われたアスペの実験によって、いったん相互作用した偏極光子対の間には、たとえどんなに距離が離れていても相関があることが確認され、これによって量子現象の分離不可能性が示された。しかしもしこれが事実なら、研究対象をその構成要素に分解することができ、一部を分離して扱うことができるという要素論前提に立つ近代科学(58)は、大打撃を受けるはずである。なぜなら、宇宙の創造期にはすべての素粒子が相互作用していたと考えられるとすると、現在の宇宙で分離不可能な現象はひとつもないはずだからである(59)。このように、分離不可能性の意味するところが常識的にはきわめて不可解であるにもかかわらず、たいていは、この実験の結果については、これによって隠れた変数の理論は成り立たず、量子力学の正しさが確認されたと言われるだけで、これがいったいどういうことなのかそれが意味するところを理解しようとする試みはほとんどない。このことを見ても、ディラックが述べているような風潮がこんにちでも続いているということがわかるだろう。
このような、実在についての統一的な描像を避けようとする現代科学の傾向には、「自然科学は単なる法則の集大成、無関係な事実のカタログではない。それは思索過程特有の自由に発想されたあらゆるアイデアや概念をともなった人間の知性の創造物である。物理学の理論は、一つの世界像を形成する試みであり、この像と広い知覚領域との間の関係を確立する試みである」(60)と主張するアインシュタインや、「この宇宙についての、首尾一貫していて理解可能な描像を描くことは、自然科学と自然哲学の偉大なる課題である。」(61)と主張するポパーの科学観とは決定的に異なる。 このように、ポパーは現代科学の最先端が捨て去ろうとしている目的を再び拾い上げようとしているのである。
現在では、量子力学は新しい技術開発の場面で盛んに応用されている。その一方で、ポパーの言うような統一的世界像の探求は、テクノロジーと結びついた巨大科学技術研究にあっては、主流からはずれてしまっている。しかし、こうした風潮ははたして自然科学そのものにとって、望ましいことなのだろうか。応用技術の現場では、あるシステムの不具合の解消のため試行錯誤で原因を探求すべくいろいろと条件を操作しているあいだに、ある条件を操作すると不具合が解消するのだが、それがどうしてなのか複雑過ぎて究明できないといったことがある。しかし、とにかくさまざまなテストを繰り返してもシステムはうまく稼働している。このために、この時点で原因の探求を打ち切るということも時としてないわけではない。だが、こうした方針はそのさき困難に陥ることが少なくない。真の原因がわかっていない以上、また新たな不具合が生じる可能性が否定できないし、もし生じてしまった場合アド・ホックな対応を繰り返すしかないからである。このため、高い信頼性が要求されている場合は、うまくいっているように見えるからといってそこで手を止めず、あくまで不具合の原因を系統的に究明しなければならない。量子力学がこうした例と同じような状況にあるかどうかは一概には言えないが(62)、たとえこのような例があてはまらなくても、ド・ブロイの物質波についての研究の経過をたどってみればわかるように、描像はときとして科学研究にブレイクスルーをもたらす重要な推進力となりうる。描像、世界像なしでは、群盲像をなでることにもなりかねない。
ポパーは実在論と非決定論を結び付けるという新しい試みに挑んでいるが、この試みは決して容易ではない。しかしこの試みは、現代の自然哲学において新しい局面を拓く可能性を秘めているように思われる。