認識の進化と「開けゴマ」

嶋津 格

 D.キャンベルは、進化論的認識論に従いながら、発見過程または問題解決の進化を、原始的なものから高等なものまで10の段階に区別している(Campbell 1974,1960) 。これは盲目的変異と選択的保持つまり試行錯誤による知識の獲得の基本構造が、原始的生物から人間まで一貫していることを主張するとともに、その場合の「試行」の範囲を目的が達成されそうな領域に限定して失敗による損失を最小限にし、効率を飛躍的に高めて発見過程全体を経済化するメカニズムとして、視覚や記憶、言語など、人間にとっての認識の道具となる装置の発達を考えるものである。
 ちなみにその各段階は次の通りである。 1)非記憶的問題解決(盲目的な運動変化による)、 2)運動代理器官(船のレイダ−または視覚など、実際に行ってみる代わりとして試行を行う)、 3)習慣と 4)本能(系統発生的な試行錯誤の結果であり、固体にとっては(疑似)生得的知識となる)、 5)視覚に支援された思考(W.ケ−ラ−のチンパンジ−のように、現前する環境の中で思考の上で運動を代替的に行う)、6)記憶に支援された思考(記憶を使っての思考実験としての試行錯誤だが、ポアンカレの言うような無意識のレベルのもの、およびコンピュ−タ−による問題解決を含む)、 7)社会的に代替的な探究、観察による学習と模倣(社会的昆虫などにも見られる斥候による試行錯誤の結果の社会的学習)、8)言語(フォン・フリッシュの発見したミツバチの「言語」をも含む。また幼児による言語の学習自体が試行錯誤による)、 9)文化的蓄積(文化または社会制度の進化。特に選択的借用による伝播。模倣の変異を通した淘汰過程など)、10)科学。
 これは、彼が簡単にではあるが語っている、メタ・レベルの試行または仮説の進化の問題と関連する。つまり、直ちに淘汰の対象となる仮説ではなく、当たりそうな仮説の生み出し方についての仮説を体現するような機構が様々あって、それらが淘汰にかかって進化する、という訳である。もちろんだからといって、それら仮説の仮説は正しい仮説を常に生み出すとはかぎらないし、重要な試行の領域を始めから排除することで、むしろ発見の可能性を狭めることになる場合もある。メタ・レベルに可謬主義を適用するなら、これは当然のことである。
 このような議論に接して私に興味深いことは、このような進化論的認識論が、ポパーにもともと見られる合理主義本来の主張とは少なくとも表面的に矛盾するような含意をもつということである。ここで合理主義とは、個々の認識や倫理などの基礎または内容を徹底的に反省・自覚し、かつそれを言語化して自他の討論にさらし、自らの世界像と行動形成の基礎としてそれを採用するか否かを決定するについて、この言語のレベルにおける決着をまともに受け取る、というような態度のことである。私は別のところでこのようなポパ−の態度を「言明主義」とか「意識主義」とか呼んだこともある。もし、言語の世界における「淘汰」が忠実に現実の世界で起こるべきそれを映し出しているなら、これは少なくとも進化論的に正しい態度であろう。しかし、キャンベルなどによって適用領域をどんどん拡大される「盲目的変異と選択的保持」のメカニズムは、意識や言語の狭い領域をはるかに越えて広がってゆくもののように私には思われる。
 今の段階で詳論する用意はないのだが、私にはむしろ、アリババが盗賊達のしたのをまねて「開けゴマ」と叫んだら、岩の戸が開いた、というようなモデルが言語の本来の姿を表現しているように思われる。つまり、それを言えば何故岩が開くのかは、発声をしているアリババにも全くわからないし、説明もつかないが、何と言えば目的が達成されるかはわかっている、という訳である。我々の意識的世界と外界とを繋いでいる長い連鎖は、それ自体が気の遠くなる進化論的過程によって形成されてきたであろう多くの「開けゴマ」でできているはずである。これを意識化・言語化するといっても限度があろう。またそこで生み出される仮説は、仮説の仮説を体現しているとするなら、ランダムではないし、当たる保障はないが従わないよりは従う方が理に叶うようなものであるかもしれない。もちろん仮説の生成過程は捨象して、生み出された仮説だけを言語による淘汰に晒せばよい、というのが批判的合理主義だが、それが可能かどうか、が問題なのである。たとえそれが可能だとしても、それは我々の中にある広い意味の非言語的世界認識と言語使用が連動していること(これをここで「開けゴマ」と呼んでいる訳だが)によって始めてできることなのかもしれない。例えば、真剣に議論しているうちに知らぬうちに自分の見解が変化してしまっているのに気付く、というような場合である。何故そうなったかは後で考えてみることができるだけである。もちろんその考えがほんとうの理由を教えてくれるという保障はない。そうだとすれば、「合理主義」的戦略の成功は、合理主義者の自己認識とは異なって、非合理的メカニズムの存在に依存しているということになる。(これはポパ−・バ−トレ−論争における合理主義への非合理的信仰云々の問題とは無関係である。)このようなアウト・ルックと道徳や社会制度の進化の問題とを結合する、というのがこの間ずっと私を悩ませている問題領域である。