論証は何をなしとげるのだろうか

デイヴィッド・ミラー(小河原誠・井上彰訳)


【凡例】
1)原文でのイタリック体は、〈〉で表した。
2)[]内は、訳者による補足説明を表す。

0 序

 本稿で考察され、また願わくは解かれるべき問題は、面喰うほどてみじかに述べることができる。論証は、演繹的であるか、演繹的でないかである。演繹的論証は循環的であるし、演繹的でない論証は妥当ではない。循環も非妥当性もよくないことである。このように、なぜわれわれは論証というものの扱いに苦しむのか。論証は何をなしとげるのだろうか。
 私にとってこの問題は、重大なものであり難しいものである。しかし、ある読者はこの問題を重大なものとも難しいものともみなさないのではと懸念するし、そう予想さえする。というのも、真理や合理性といった古風な知的徳目の追求をあざ笑い、こういった啓蒙主義的考えはとり返しのつかないほどに死んでしまったと主張することがふたたび流行してきたからである。知的には眠気を催すような(私には、知的に無責任と思える)ポスト・モダン崇拝に魅了されている人たちは、私が共有してもらいたいと思っている問題は、賢明な人なら真剣には受けとらないように学んでしまったこと、つまり、知的な活動において〈じつに〉論証が用いられているということだが、これを前提しているのだから重大事ではないと言うことであろう。もちろん、論証ということで私がここで言っているのは、前提と結論からなる構造のことであって、楽しく愉快な一片の〔ポスト・モダニストがはやしたてる〕物語のことなどではない。専門的に言えば、なんらかの、独断的になされた主張は、前提がない論証とみなされるが、本稿での目的からして、そのような退化したケースは度外視することにしよう。ポスト・モダニストの人に対しては、もしこの場におられるのなら、耳を傾けてもらうことだけを求めたいと思う。相対主義や懐疑主義はポスト・モダニスト的ものの考え方の典型をなしているが、思うに、それらは初歩的な認識論上の混同に由来するものである。私の主な目的からは隔たるとはいえ、私が言わなければならないことはその混同を明確に捉えるであろうと思う。他の読者は、私の問題を真剣に受けとめず、この問題がたいへん難しい問題であることを理解しないかもしれない。多くの読者は、われわれが論証を用いていること、そして用いる目的がわれわれの保持しているドクトリンを立証し、証明し、支持することに、あるいはそうでなければもっともらしくみせることにあることは自明であると思っていよう。これは、伝統的な合理主義者の立場であるわけだが、私には、この立場も同じような混同に冒されていると思われる。もっとも、この場合では適切な処置がなされるならば、冒されている人を救うことは可能ではあるのだが。このような伝統的な合理主義者に対しても私は、聞く耳はもってもらいたいと思うだけである。しかし、こうした集団のどちらに対しても私は、満足してもらえそうなことを言えるとは思っていない。私が擁護したいと思っている立場は、まったくもって心地よくないものである。その立場は、知的な成熟ばかりでなく、感情的な成熟も要求する。
 拙稿をこのように、つまり、警告的にして攻撃的にはじめる必要があるのは、私の言わなければならないことがポスト・モダニストと伝統的合理主義者の双方にとって、ポスト・モダニズムと同じようにうさんくさく響くであろうことを十分に意識しているからである。私の言うことは、その種のものなどではないということを強調しておこう。拙稿で取られている立場が懐疑主義的であるか相対主義的であると考える人がいるとしたら、それは、私がすでに言及した普遍的といってもいい混同のためであろう。本稿のおわりで私は、この警告をまじめに繰り返すつもりである。
 素朴な実在論や素朴な合理主義の立場から出発して、この困難を少しばかり明らかにしてみよう。われわれの住んでいる世界を探求していくときの目的はなんであろうかという点を考えてみると、真理は、何らかのかたちで、証拠よりも、また、論理や合理的論証よりも優先されるものであることをわれわれは承認するであろう。なるほど、われわれは証拠の探求に従事したり、合理的論証につとめたりするが、それは、そうすることが目的そのものであるからではなく、なんらかの仕方で真理の探究を前進させたいからである。これは経験科学ではごくあたりまえのことだが、哲学では事情が違っているように見える。つまり、哲学するということは、その大部分が経験からの是認を受けられるかといったことから切り離されているが、合理的であるかぎりで、ふつうに論証が至高のものとなる領域と見なされてきた、と考えられている。新著に対して、まるで重要なのは論証だけであるかのように、「もちろん、結論には同意するが、論証のなんと弱々しいことか」と弾劾する、あるいは弾劾される声をしばしば聞きはしなかったことか。純粋数学もまた経験科学とは異なっているように思われる。というのも、理論の真なることの証明よりも、証明の正しさが、通常の場合、関心事となっているからである。〔ここでは〕ラッセルのテーゼ(Russell [1901], p. 75)、つまり、数学とは「何について話しているのか、また言っていることが真なのかどうかも、われわれにはけっして分からない学科である」を思い起こしてもらってよいだろう。しかし、論じられる命題よりも、このように論証〔そのもの〕へ没頭することは、(この没頭からすると、「結論」ということばは探求の終わりにおいてのみ出現すると示唆されるので、危険なまでに誤解を招くのだが)、思うに、誤った学説〔ファラシー〕、すなわち、探求そのもののなかで進められる論証は探求された命題となんらかの真正の関係をもつという学説にもとづいている。哲学者が哲学(やまた他の分野)における論証の重要性を誇張することを許し、論証を嫌悪する人が論証の支持者を引き裂くことを許したのも、この学説ではないかと私はみている。
 われわれの前にある問題はこうである。合理的論証は真理に対するわれわれの探求をどのような仕方で前進させるのか。論理学は論証の理論であるのだから、これは論理学にとっての問題である。この問題に対しては、西洋の哲学的伝統では少なくとも三つの答えが提案されてきたが、それらのどれひとつとして私には満足のいくものであるようには思えない。この問題を理解することへ向けては、私の師であった故カール・ポパー卿によって多年にわたって展開された画期的な貢献があるので、私はそれにしたがい、かつそれを敷衍することによって、第四の答えを考慮にいれていただきたいと思っている。
 まったくもって不適切だと考える三つの答えとは、以下のようなものである。

(1)レトリック
 論証の主な目的は、人びとの考えを説得すること、ないしは、変えることである。
(2)発見
 論証の主な目的は、われわれの知識に追加すること、ないしは、知識を拡張することである。
(3)正当化
 論証の主な目的は、われわれが関心をもつ命題へのよい理由を正当化するとか、証明するとか、立証するとか、強化するとか、支持するとか、あるいは、そうした理由を与えることである。

 第四の答えは、私の支持するものであるが、こうである。

(4)批判
 論証の主な使い道は、われわれが関心をもつ命題を批判したり、吟味したり、除去したりすることであって、そうした命題に賛成するかそれとも反対するための理由を与えることではない。

(1)に対する反論。私があなたと議論する主な目的はあなたの考えを変えることであるという示唆に対しては、それは独断主義を勢いづかせることになるというのが私の反論となろう。すなわち、説得への関心は、何が真であって何が真でないかを発見する手助けとなるどころか、真理の追究を妨げるということである。

(2)に対する反論。論証の主な目的はわれわれの知識を拡張することであるという示唆に対しては、それはできないというのが私の反論である。演繹的に妥当な論証はどんなかたちであれ知識を有効に前進させるものではない。他方で、妥当でない論証は、知識を前進させることができるというかぎりで、論証というよりは、むしろ思いつき、ないしは推測として分類されねばならない。

(3)に対する反論。論証の主な目的は、自分が信じていることを正当化したり、あるいは証明したり、または、それに支持を与えることであるという示唆に対しては、ふたたび、それはできないというのが私の反論である。演繹的に妥当な論証は、証明されるべきことがらをまさに仮定しているという日常の意味で、循環的である。一方、このような仕方で循環しているわけではない論証は、そこでの結論に対する支持を提出しないと私は主張するつもりである。

(4)に対する反論。私はこの立場をとがめられるほど不適切ではない答えとして推奨したいと思っているが、この立場に対してもまた、いくつかの反論を挙げてみよう。しかしこの場合においては、それらの反論に対しては、さらに心配を引き起こすことはないような仕方で答えられるだろうと信じている。

 さらに議論をすすめていく前に、専門用語にかかわる──もっとも、それだけではないが──論評をくわえておきたい。現在の哲学の文献では一般に、一方の側における論証と、他方の側における推論、推理、また立証とのあいだに区別がもうけられている。論証は、算術的なものと認定されるものと同じカテゴリーに属する抽象的な対象と考えられる一方で、推論とか立証は、演算や計算のプロセスが算術的真理を用いたり、あるいは少なくともそれとの一致によって判断されるのとまったく同じように、論証を用いる活動とかプロセスなのである。〔ここからすれば〕、同じ論証が、多くの異なった推論の中心部に存在することになろう。たとえば、ごく最近の論文のなかで、パーゲッターとビーゲロー(Pargett-er & Bigelow [1997], p. 62)は次のように書いている。

「論証はひとつのことがらであり、〈推理〉とか〈推測〉は(プロセスとして)また別のことがらである。「抽象的な対象」という意味での論証に直面すると、ある人は前提から結論を推論するように動かされるかもしれない。他の人は、そうした前提が導く結論を見るや、前提の一つあるいは多くについての判断を保留するように動かされるかもしれない。また他の人は、結論を信じようとは思わないので、前提の一つを否定するように動かされるかもしれない…」
 そして彼らは、いくつかの別な答えも示唆している。つづけて彼らは「論理は推理とはほとんど何の関係ももたない」(このことばは、パーゲッターとビーゲローのものであるが)と主張したハーマン(Harman [1986])との完全な一致を表明している。こうした区別に照らしてみると、拙稿には、今回選んだタイトルよりも、推理は何をなしとげるのだろうか、といったタイトルをつけておいた方がより目的に適っていたかもしれないと思われるほどである。結局のところ、抽象的な対象はそれ自身では何事も達成しないというわけである。なるほど、よろしい。この定式化に満足することにしよう。とはいえ、〔彼らによって〕意図されたような意味での、つまり、妥当な導出規則に体系的にしたがうという意味での推理といった活動はほとんど存在しないと私には思われるのであるが。これまでに提示されているあらゆる論証は、トライアル・エンド・エラーといった類の面倒な操作を苦労しながら再構成したものではないかと思う。しかし、そうであるかどうかは一部には経験的な問題であり、そして私はここでそのような極端な主張を擁護する立場にはいない。私は、世界についての真理を発見しようとする試みには絶対に欠かすことのできないさまざまな合理的活動において論証が用いられているということ、この点を疑ったりはしないと自信をもって言える。もういちど私は、礼儀に反しないかぎり激烈に、自分が合理主義者であることを強調しておくことにしよう。

1 伝統的な答え

 私は、論証によって、あるいは、論証を用いることによって何をなしとげることができるのだろうかという問題に対する三つの伝統的な答えを引用しておいた。最初の答え(1)、つまり、われわれは論証を主に説得したり、確信させるために用いるという答えは、なんら踏み入った議論などせずにしりぞけるつもりである。というのも、論証がときに他人に対して、あるいは恐らくは自分自身に対しても、真理を納得させるために、あるいは、なんらかの権威によって真理であると主張されている学説を納得させるために、用いられることを否定するのはばかげたことだろうからである。レトリックとして知られている活動領野は、説得のテクニックの探究、分類、評価を課題としてきた。生活のいくつかの領域では、こうしたテクニックに熟達していることがおそらく欠くべからざることとなる。すなわち、もしあなたが成功した弁護士、政治家、あるいは異端審問官になりたいなら、陪審員、有権者、あるいは異端者を説得する方法を知る必要があるだろう。もしあなたが学校の先生や教授であるなら、算数、文法、初歩の論理学、あるいは行儀よさのための二、三の基本原理を生徒に納得させる義務があると感じるだろう。たしかに、説得の方法のすべてが論証と見なされるわけではない。たとえば、親指締め〔拷問〕は論証ではない。じっさい、合理主義者にとっては(しかし、異端審問官にとってではないが)、それは、何といっても、論証によって返答されうるものではないのだから、魅力のない技術である。それは、別種の力を見せることによってしか答えられないものである。しかし、科学や哲学においては、教化と呼ばれているあの教育過程の一部──そこでは、真理は知られているとされる(あるいは、そう考えてわれわれは悦にいっている)わけだが──とは反対に、教えられていることの大部分が決定的に真であると知られているわけではないのだから、あらゆる説得のテクニックには十分に敏感であるのはもとよりのこと、そうしたテクニックに内在する独断主義には油断しないようにした方がよいだろう。まさにこの点においてレトリックの研究は、疾病の研究と同じように、価値がある。われわれは、それが生じてくるときにそれを認めることができる必要があるし、それに対して防御する必要がある。論証は説得のために用いることができるし、包丁は殺しに使うことができるというわけだ。
 私が提起した問題に対する第二の伝統的答え(2)は、論証の使用を発見の過程、とりわけ、科学的発見の過程と結びつける答え、すなわち、論理は、既知のことから未知のことへの移行を楽にする探求の道具であるというものである。演繹的論理にかんするかぎり、この学説の支持者は今やほとんどいない。(一人の例外は、ザハール(Zahar [1983])であるように思われる。)発見学、つまり、科学的方法にはなにか特別なものがあるという考えに関心をもった人の大多数は、渋々ながらもJ・S・ミル(J.S. Mill [1843]、第二巻、第三章、第一〜三節)にしたがい、演繹的論理は、ヘーゲル主義者の典型的な言い回しにしたがえば、「不毛」であると認めるに至った。ミル自身は、妥当な論証(これは、彼自身にとっては、妥当な古典的三段論法を意味していた)の結論には、すでに前提のうちに含まれていないようなものは何もないということを自覚して唖然とし、自らが推理的思考(ratiocination)と呼んだものから演繹的論理を完全に排除するようになった。特殊的なものから特殊的なものへの帰納的論証のみが、推理の範囲内に正しく属するものである、と彼は考えた。しかし、これらのいわゆる帰納的推論にかんしても嫌になるほどよく似た問題が生じてくる。既知のことから未知のことへ進んでいくことを許す既知の方法は明らかに存在しないのであるから、というのも、もしそうした方法が知られていたら、未知はすでにして既知になっているだろうから、したがって、帰納的推論は、(公式のであれ、非公式のであれ)なんらかの固定した規則にしたがってなされることはありえないということになる。これよりして、そうした動きを論理的推論であると取り繕うよりも、思いつき(guess-es)と呼ぶ方がはるかに正直であろう。妥当でない推論──あるいはむしろ、そうしたものからの結論──は、世界についての思いつき以外のなにものでもない。対照的に、妥当な推論は、世界を探求するいかなる試みでもなく、すでに世界について受け入れられている命題を探求するだけの試みなのである。
 われわれの知識を増加させるために論証を用いることができるという学説をこのように拒否したわけだが、この拒否は、知識を何かしら客観的なものとして、すなわち、意識的な自覚なしに所有できるなにものかとして捉えることに依拠している。というのも、明らかに論証を使用することで、われわれは自分の主観的知識を増やすことができる、すなわち、以前には見て取られていなかった結論を発見するかもしれないからである。しかし、それにもかかわらず、そうした結論はわれわれがもっている知識内容の一部分にすぎなかったというわけである。この点は、すでにミルが前掲書の第三章、第二節で次のように述べていた通りである。「〈含意〉によって前提のうちに含まれているものと、前提のうちで直接に主張されているものとの間には区別が引けるといったたんなる但し書きのようなものに、真剣な科学的価値を結びつけることはできない。」論理的論証は心理的価値があるだけであって、われわれがそれを用いるのは論理的鋭敏さを欠いているからにすぎないと結論することはたやすいが、間違いであろう。そうした結論が生じてくるのは、論理は根本からして〔知識を追加する〕発見の道具であると承認されているときのみである。じっさいは、論証は、われわれがその結論をはっきりとみており、またすでにそれを知っているときでさえ、価値をもつと言ってよい。
 第三の伝統的答え(3)は、以前は違うとしても、正確に第二の答えと同じ囲いの中にある。古典的懐疑主義は長いこと次のように論じてきた。どんな正当化とか証明にしても前提を用いるのだから、また論証の結論というものは前提が先だって証明されてしまっているとき、そしてその時にかぎって、その論証という手段によって証明されたと見なすことができるのであるから、開始することのできない無限後退が存在する、と。〔とすると〕自己正当化的な、あるいは、自明の前提のみが仕事を果たすことになるだろうが、〔しかし〕明白なことが一つあるとしたら、〔じつに〕自明であるような命題は存在しないということである。しかし、これよりももう少し言えることがある。ミルが気づいていたとおり、あらゆる妥当な三段論法の、したがってまたあらゆる妥当な論証の結論は、その前提のなかにまったくもって含まれているのだから、前提は結論にどんな重みをも加えられないということである。日常的なレベルでは、証明であるとか正当化であると称しているどんなものも循環的である、つまり、肝心の問題を未解決にしていると言えよう。より哲学的には、ミルにしたがい、あらゆる妥当な論証は〈論点先取の誤謬〉であると譲歩することになる。次のように言えば、このディレンマを明快に述べたことになろう。つまり、もし演繹的に妥当な論証の前提がまだ証明されていないならば、その論証は結論を証明するのに不十分であろう(これは古典的懐疑主義の反論である)。しかし、もし前提がすでに証明されているなら、結論は、前提の一部分であるのだから、したがって証明されていることになる。いずれの場合においても、前提を結論に結びつける論証は、結論を正当化したり証明するさいに、ほんのわずかの助けにもなっていない。
 しかしながら、論証と呼ばれるあらゆるものが、妥当な論証であるわけではないし、妥当でない論証のなかには、おそらくすべてではないがいくつかは、結論を証明したり保証したりはしないにしても、結論に重みとか支持を付与しはするというのが、伝統の非常に大きな部分をなしてきた。これは、帰納論理や「蓋然的推理」の信奉者によって囲い込まれている領域である。じっさい、妥当でない論証は、妥当な論証に対して二つの明確な利点をもっているかのように見える。第一の見たところの利点はかなりはっきりとしている。すなわち、妥当でない論証に対して〈論点先取の誤謬〉を犯していると反論することは、論証が妥当ではないときには結論が前提のなかに含まれていることは〈ない〉のだから、端的に正しくないということである。にもかかわらず、私は、同じような反論をおこなうことができる、と主張したい。そこに含まれる専門的な点(これについては、Miller [1994], pp. 59-63を参照のこと)の概略を述べるには、ここは適切な個所ではない。こう言っておくだけで十分であろう。妥当でない論証は、それを用いる人の意図に反して、その結論のための正当化、否、部分的正当化さえ提供しない。妥当な論証に対する妥当でない論証の第二の潜在的な利点は、明確に把握するのは容易ではないが、次のような点を認めることであろう。すなわち、証明に対する伝統的な懐疑主義的反論は、妥当でない論証の場合には、論難を許さないほどに緻密な議論となるわけではない。というのも、懐疑主義者が主張するように、妥当な論証の結論は、最初にその前提が証明されていないかぎり、証明されたと見なすことはできないとはいえ、このことは、結論を証明しようなどとはしておらず、ただ合理的なものにしようとしているだけの妥当でない論証に対しては明らかにあてはまらないからである。前提は合理的でなく、もっともらしくもなく、また少しも正当化されていないにしても、その妥当でない論証の結論が合理的であるとか、あるいはもっともらしいとか、部分的に正当化されているといったこともあろう。ここでの困難は、合理的であるとか、もっともらしいとか、あるいは部分的に正当化されているといった観念についてなんらかの適切な理解をもとうとするさいに生じてくる。おどろくべきことに聞こえるかもしれないが、私は、妥当でない論証とか厳格でない(inconclusive)論証はそれにもかかわらず良い論証であると言われるさいに何が意味されているのかを、まったく理解できない。この点にはすぐにたち戻ることにしよう。
 妥当な、また妥当でない論証の双方とも、主に正当化のために用いられるという正統的学説に対して私がこれまでに言ってきたことを要約すればこうなる。そんなことはなしえない。妥当な論証も妥当でない論証も、結論が真であることを示すことはできないし、さらには結論が真であると考える十分な理由を提供することさえできない。

2 帰納の問題

 すでに述べておいたように、本稿を開始するにあたって提起しておいた問題に対しては二者択一的に選択されてよい答えがある。それは、まったく単純なことながら、こうである。論証は、説得するためにではなく、未知のことがらを発見するために、そして(厳格であるせよ、そうでないにせよ)正当化をするためにではなく、批判をするためにだけ用いられる。
 このアプローチは、ふつうには批判的合理主義として知られているが、その源泉は、六〇年以上も前にカール・ポパー(Karl Popper [1934])がヒュームの帰納の問題に対して提案した解決にある。ヒュームは、経験的証拠の言明、すなわち、観察や実験の結果を直接的に報告する単純な事実命題が、(論証によってではないが)厳格に正当化されていることを当然視していたように思われる。それは間違いであったが、さし当たり一歩譲ってそれを認めておくことにしよう。ついで彼は、上述でわれわれが多かれ少なかれ気づいたことを指摘した。すなわち、われわれがもっている証拠から演繹的に導出される帰結のすべては、端的にその証拠の一部分であるのだから、それらの帰結もまた厳格に正当化されたものと見なされてよい、と。しかし、なにものも厳格に正当化などされない。どんな将来の出来事の予測だろうが、あるいは証拠が報告されていないどんな出来事の予測にしても、循環を犯さずには正当化できない。どんな普遍的一般化にしてもそうである。とくに科学の普遍的な仮説は、たとえその証拠がそれ自身厳格に正当化されているとしても、われわれがもっている証拠によって正当化されるものではない。われわれの仮説とか、あるいはわれわれの予測に対して経験的証拠が少しの正当化も提供できないというならば、それでは経験的証拠の役割は何なのか。ポパーは、経験的証拠には一つだけ目的がある、それはつまり案出された仮説をテストすることである、と提案した。それですべてであり、それ以上はなにもない。そしてそれが証拠のなしうるすべてであるのだから、われわれの仮説はテスト可能なものであるようにした方がよいというのである。要約すれば、経験的仮説は反証可能でなければならない。というのも、ただ否定的にあるいは批判的に、経験的証拠は経験的仮説と衝突しうるにすぎないからである。これが、科学を非科学から区別する彼の有名な境界設定の規準、すなわち、科学的理論とは経験的証拠によって反証可能なものである、という規準である。この規準については語られるべき多くのことがあるが、それは本稿の論題ではない。
 ポパーは(Popper [1972]、第一章)、帰納的推論というようななんらかの過程が存在するとしたら、それは正当化されるものではないであろうという点で、ヒュームに同意した。あなたの郷里における過去の日の出の証拠があなたに満足のいくほどたくさんあり、またあなたに満足のいくほど正当化されているとしてみよう。それでも、あなたの郷里で太陽が明日昇ると、あるいは毎日昇ると結論することは少しも正当化されない。こうしたことよく知られていることである。しかしポパーは、ヒュームを超えでて、われわれの知的生活(私はわれわれの哲学的生活だけでなく、われわれの認識活動のすべてを意味している)においてなんらかの役割を果たす帰納的推論の過程といったものはまったく存在しない、と主張するに至った。証拠の言明から普遍的な仮説ないしは理論を誤りなく導出させてくれる帰納的推論の過程など存在しない。〔グラフ上にプロットされた〕データを巧みに結びつける曲線を考えるというおなじみの問題から明らかになるように、なんらかの一群の正当化された証拠言明が普遍的規則に一般化されうる方法は無限に数多くあるのであって、いまだかつてなんぴとたりとも、そうした方法のうちで他のものよりもあるものを選び取る正当化可能なルールを定式化したわけではない。とはいえ、証拠言明は普遍的理論と矛盾することができる。それゆえ、もし証拠が正当化されているなら、その証拠に矛盾する普遍的理論は偽であると結論されることになろう。
 さて今や、上述でヒュームに対しておこなった譲歩を撤回するときである。というのも、証拠言明が厳格に正当化されうると想定するのは野蛮な理想化だからである。ほとんどすべての哲学者が一致している数少ない点の一つは、観察と実験は誤りうる手続きであるということである。われわれは、それらを盲目的に信頼することはできないばかりでなく、ときにはそれらが現実に間違った答えを出すことを知っている。いずれにしても、われわれは、観察報告が正しいと確信することはできない。これによって、なんらかの科学理論を厳格に正当化する見込みが薄れたなどと言うにはおよばない。それどころか、それ以上の帰結がある。すなわち、証拠からの妥当な演繹的推論さえ、正当化された結論を生まないし、また厳格に正当化された反証も存在しないということである。だが、だからといって、われわれがもっている証拠が、われわれの関心をひくある種の科学的仮説を反証しえないわけではない。われわれはもはやみずからの結論において正当化されえないとしても、論理的状況は変らないままである。
 厳格な正当化に対するヒュームの非難は受け入れられているとはいえ、ヒュームに対する通常の反応は、まったく異なっている。つまり、こう主張されている。科学的仮説は、かりにその証拠が論争の余地のないものであっても、証拠によって証明されうるわけではないが、部分的正当化、験証(confirmation)、経験的支持、あるいはその他その種のことには開かれている、と。科学的仮説は−−証拠が確実でないということだけからしても−−確実なものとはされえないが、もっともらしいもの、または、ありそうなもの、ないしは、合理的なものにすることはできる、というわけである。これは、ヒューム自身の立場ではなかったし、ポパーの立場でもなかった。だが、今日では、この立場は、科学的知識になにかしら特別なものを認めようとしている人々のあいだでは、ほとんど至るところで、ポピュラーである。帰納に対するポパーのアプローチへの最近の批判者(Lipton [1995], p. 34)はつぎのように書いているが、じつに特徴的である。

「……われわれは懐疑主義と可謬主義を混同してはならない。知識についての可謬主義的説明は、われわれすべてが占めたいと思っている大地である。すなわち、理論もデータもそもそも確実ではない、ということである。しかしながら、ヒュームは、帰納にかんしてたんなる可謬主義者ではなかった。彼は、帰納的推論の結論が不確実であると[だけ]主張したのではなかった。つまり、それら〔結論〕は認識論的にいって無価値であると主張したのである。」

 ここで主張されていることは明白である。もし、ヒュームやポパーのように、部分的正当化や確からしさの追求も拒むとすれば、厳格な正当化の追求を拒否する〈可謬主義者〉は確実に〈懐疑主義者〉に変わってしまう、ということである。
 この至るところでポピュラーな態度は、私の考えでは、現代における二つの主たる認識論上の過ちを露呈している。一つ目の過ちは、少なくとも部分的にさえ正当化されていない仮説には価値がないと考えることである。二つ目の過ちは、部分的に正当化されている仮説の方がそうでないものより価値があると考えることである。これらが一緒になって、私が拙稿を開始するに当たって言及はしたが、明確には述べておかなかった混同、すなわち、真理と[部分的に]正当化された真理との混同を生み出しているのである。この点については、ジャーヴィー(Jarvie [1995])を参照されたい。

3 部分的正当化

 今度はこれら二つの過ちについて応答してみよう。一つ目の過ちと私が名づけるものは、ラッセルのエッセイ『懐疑主義の価値について』(Russell [1928], p. 11)の冒頭部分に非常によく似たものである。

「読者に好意的に考慮してもらいたいと思って私が提案する学説は、思うに、ひどく逆説的で破壊的なものではないかと恐れる。その学説とはこうである。すなわち、命題が真であると考えるどんな根拠もないとき、その命題を信じることは望ましくない。」

 この主張に対して私が言いたいのはこうである。真なる仮説、あるいは、真理に十分接近している仮説は、少しも正当化されていないにしても、価値がある──もちろん、われわれはそれが真であるとか、あるいは、それがどれくらい価値があるのかを知りえはしないとはいえ。人間外の全動物界では、生き延びることを遺伝的にコード化された真理に依存しているが、そうした真理には真であると想定するいかなる根拠もない。どんな猿も万有引力の法則を正当化しえないとはいえ、始終それを利用しており、それの真なること(あるいは近似的に真なること)は猿の活動にとって決定的である。二頁後でラッセルは、みずからの明白な意図にもかかわらず、伝統的な懐疑主義に近いと思われる立場を、より明確に述べている。少なくとも、その立場は、普遍的な判断停止と両立しうるように思われる(op. cit., pp. 12f.)。
「私の弁護する懐疑主義とはつぎのことでしかない。(1)専門家が合意したとき、反対の立場は確実なものとは見なしえない、(2)彼らが合意しないとき、専門外の人によって確実なものとみなされうる意見などない、(3)専門家たちすべてが、ある明確な意見に対し十分な根拠がないと考えるとき、通常の人は判断を停止した方がよいであろう。」

 私は、ここでの(3)に不同意である。というのも、ある明確な意見に対して十分な根拠がないとしても、判断を停止することはまちがいかもしれないからである。換言すれば、判断を停止することは、たとえ専門家のすべてが〔十分な根拠がないと考える点で〕偶々すべて正しいとしたところで、まちがいかもしれないのである。専門家のなかの何人かがまちがっているならば、〈なおさら〉である。
 二つ目の過ちに対する私の応答は、いっそうラディカルである。それは、ある仮説が部分的に正当化されていると知って、それで何が獲得されるのかを告げてくれ、あるいは、それが真であると想定する十分な(だが、厳格ではない)理由があるというならば、それを告げてくれと挑戦することである。ある仮説を支える厳格な理由は、そのようなものがもしあるとして、その仮説が真であることを告げるものであろう。しかし、正当化が厳格でないならば、なにも生じはしない。
 私の旧稿[1996]の主旨は、経験的験証あるいは肯定的証拠にはどんな用法〔用いられ方〕があるのかを問うことであった。この問いかけに対して、この問いがとくに向けられていたダニエル・ハウスマンはこう応えた(Daniel Hausman [1996], p. 217)。「Pの経験的験証の用法とは、Pを信じる理由を提供することである」。では、「Pを信じる理由」の用法はなにかという明らかに副次的な問題に対しては、彼はなんの応えもしなかった。
 厳格な正当化から厳格でない正当化への退却は、至るところで見られるが、その見せ掛けにもかかわらず、妥当な推論の境界内にとどまろうとする試みであると思う。この点は必ずしも明白ではないのだが、パーゲッターとビーゲロー(Pargetter & Bigelow [1997])においては明確にされている。彼らによれば、ある種の仮説を信じることが合理的であるとか理に適っているという命題は、いくつかの場合においては、他の関連する証拠がないという補足条項と一緒にされると、われわれの手許にある証拠からの演繹的結果であるという。(その証拠を、この追加条項と一緒に、証拠状態(the state of the evidence)と呼んでおこう)。そうした演繹的連関が存在するというのが、実際のところ、彼らの論文の眼目なのである。つまり、その前提は典型的な帰納的論証の前提(たとえば、「観察されたすべてのエメラルドは緑色であり、他に関連する証拠はない」というようなもの)でありながら、また、その結論は合理的に信じられてよいことに関する言明(たとえば、「すべてのエメラルドは緑色であると信じることは合理的である」というようなもの)でありながら、重要な演繹的論証であるものが存在する、というのである。私はこうした推論が演繹的に妥当であるというパーゲッターとビーゲローには同意しないし、ましてや彼らがそうした推論に対して妥当性を打ち立てたということには同意しないが、それはここでの問題ではない。(当該の推論が演繹的に妥当であるという同じような立場は、彼らが言及しているマスグレーブ(Musgrave [1991])のものである。相違点は、マスグレーブが追加の前提として、妥当性を保証する「帰納原理」を付け加えていることである。これによってマスグレーブはさらに困難にまき込まれている(Miller [1994]、 第六・四章)。)パーゲッターとビーゲローはあらわに次のように進んでいく(p.71)。
「てみじかにハーマンの〈推理〉と〈論証〉の区別に戻ってみよう。……あなたの他の信念すべてのバックグランドを修正しないかぎり、帰納的論証の前提から、あなたが一定の結論を引き出すことは合理的であろうという結論を〈演繹的に〉推論することができる。だが、あなたが、あなたの他の信念を修正しないならば、あることを信じても合理的であろうと結論づけるのは、ひとつのことであり、あなたが信じることは合理的であろうと結論したことを現実に〈信じ〉つづけることは、まったく別のことである。後者の推論過程は〈帰納推理〉のひとつであろう。」

 これはもっとも注目に値するもの言いではなかろうか。これらの著者たちにしたがえば、あなたは、証拠状態によって、命題Pを信じることが合理的である(というのも、Pの合理性は、証拠状態の演繹的帰結だから)と告げられる立場にいることになるかもしれない。だが彼らが認めるのは、あなたが帰納推理を用いつづけるときにのみ、あなたは実際に命題Pを信じることになろうということなのである。いまや明らかに、帰納推理──こうしたものがあるとして──の助けがあれば、あなたは、合理性とか正当化という手続きを踏まずとも、Pを信じるようになりえただろうというわけである。もし帰納推理が受け入れられるのなら、部分的正当化やよい理由についてのどんな評価も必要なくなる。もし帰納推理が受け入れられないのなら、そうした評価を使用することはできなくなる。したがって、そうした評価は不必要であるか、不十分であるかである。どちらの場合にあっても、そうした評価がわれわれの理解に寄与することはない。てみじかに言えば、われわれは、よい理由とか厳格でない論証に思い悩む必要はない(Miller、上掲書、第三章、また正当化主義的だが興味をそそる論考として、『ネイチャー』誌編集者論説「証拠はそもそも厳格でありうるか」(Maddox [1994])も参照されたい)。
 上述で説明したように、私自身は、厳格だろうが厳格でなかろうが、なんらかの正当化があるということを一瞬たりとも受け入れない。上の論評は、正当化が存在すると考える人びとの意気をくじくためにだけ書き加えておいたものである。私は、厳格な正当化がどのようなものになるべきかについては知っているが、その規定にかなうようなものが何かあるとは思わない。しかし、私は、厳格でない正当化がどんなものになると想定されているのかについてはなにも知らない。帰納論理の信奉者、もっともらしさ狂、よい理由の信者、こうした者はだれにせよ、これまでこの点の説明に従事することはなかった。

4 批判的論証

 この節は、帰納の問題について、それに対してポパーが提案した解決について、また、部分的正当化とか確からしさについての考察を導入することでヒュームに答えようとするむなしい試みについて、私が明言しなければならないことを締めくくるものである。
 本稿のもともとの問題、つまり、真理の探求にあたってわれわれは論証をどのように用いるかという問題に立ち戻ってみよう。すでに主張しておいたように、演繹的に妥当な論証はそれ自身ではその結論にわずかばかりの正当化も提供しえない。前提はそれ自身正当化されていない──この場合、結論もまた正当化されていないわけであるが──か、あるいは、(ある種の魔術的方法によって)正当化されている──この場合、論証は余分である──かである。じっさい論証は、結論が正当化されていることを明らかにするであろうが、正当化の役割はなにも果たしていない。
 ヒュームの帰納の問題に対するポパーの反応は、私が今世紀におけるもっとも刺激的で革命的な知的発展の一つと見ているもの──すなわち、どんな形態であれ正当化というものに対する関心のいっさいを放棄すること、そして、真理がわれわれのあらゆる目的にとって十分であることを承認すること──における最初のステップに過ぎない。ポパーは、正当化できるかたちで間違っているよりも、正当化できないかたちで正しい方がよりよい、と語る。この言い方はその通りであろう。というのも、われわれはみずからが考えたり行動したりすることに関して決して正当化されえないが、もし運がよければ、時には正しくある(が、いつそうであるかは決して知ることはない)ことができるからである。すでに注意しておいたように、誤った仮説の排除が正当化されうるわけではないが、だからといって、排除が現実になされないというわけではない。より一般的に言えば、批判は、全体的だろうが部分的だろうがどんな種類の正当化からもまったく自由な環境で進展していくことができる。
 このように知識の成長は、推理的思考の過程というよりも、生物学的適応の過程にいっそう似ていると見られるかもしれない。しかし、ひとつの大きな相違がある。直ちにそれを説明しておいた方がよいであろう。その相違とは、論証は、思考する人間(あるいは、動物)によって正当化を保証するために用いられることは決してないにもかかわらず、批判の企てにおいてはいつでも使われているということである。つまり、私は、われわれの知識が動物の知識の成長とまったく同じ仕方で成長するとは思っていない。生物学的適応は、無意識的で、意図的ではなく、ゆっくりしており、そしてしばしば致命的である。われわれ自身の知識の進化は、意識的であり、考慮に満ちたものであり、そして早い。そしてただわれわれの仮説が死ぬだけでよい。
 われわれは論証をどのように用いているのであろうか。われわれはみずからの仮説に含まれているものをいつでも見通せるわけではないのだから、われわれはその仮説からの帰結を発見する手助けとなるように論証を用いるであろう。ついでわれわれは、そうした帰結を、他の仮説や経験に照らしてチェックするであろう。このチェック手続きにおいては、参照される正当化された、ないしは保証済みの基礎はないものの、だからといって、われわれが誤り排除に決して成功しないというわけではない。成功的な正当化があることを信じている人でも、われわれの用いる方法がたえず失敗すると考えはしまい。私には、正当化を棄却する者はまったくもって違ったふうに考えるべきだという理由が分からない。
 あなたはここに素描された立場が合理的に擁護できるかどうかに疑念を抱くかもしれない。そして、もし擁護できないと考えるならば、あなたは少数派に属するわけではないだろうと私は告白しなければならない。しかし、部分的正当化のあらゆる図式をことごとく棄却したところで、また、われわれの信奉する仮説を支持するために論証を用いようというどんな試みもことごとく棄却したところで──棄却することを私は勧めているわけだが──それは、懐疑主義ではないし非合理主義でもない。それは、大事なのは論証ではなく、結論でしかないと言うことなのである。大事なのは、あなたが考えることであり、なぜそれを考えるかではない。ポパーがしばしば観察したように、哲学的批判という伝統的方法は、論敵の論証が妥当でないことを示す試みをして、その論証を攻撃することである。私が示唆したのは、たとえ提示された論証が妥当だとしても、それで十分なわけではないということである。論証が妥当であろうがなかろうが、なすべき唯一のことは、結論を攻撃することである。論証は、結論がどれほど妥当で説得的なものであろうが、結論を正当化することはできない。
 この時点で、あるいはもっと早くからかもしれないが、あなたは、なにか腑に落ちないことがあると感じているかもしれない。まるで私が、あなたに論証を投げかけてきたかのように、そして、そうした論証のすべてが、私が出発点としたところの伝統的立場の批判であったわけではなかったというように。〔要するに〕、私は、自分が推奨している立場を遠まわしに正当化しようと努めてきはしなかったか。おそらく説得しようと試みていたのであろう。(しかし、私は、この論題で自分の言っていることを以前に誰かに確信させたことはないし、またここで私の考え方への大量転向を目撃しても悩んだりするわけではない)。私はここに言い落としがあること、そして擁護的論証について少しばかり言い足しておかねばならないことを認める。今し方、哲学的立場を批判する正しいやり方は、結論を批判することであると主張したばかりであった。〔そこからしても〕、たとえ支持を試みる〔擁護的〕論証は、妥当であるとしても、なにものも証明しないし、なんの意義ももたないということなのである。しかし、批判的論証が提起されるときには、状況はまったく異なってくる。そこでは妥当性が重要となる。というのも、批判的論証は、吟味にかけられている仮説から偽なる帰結が出てくることを提示しようとするからである。もしそうした偽とされる帰結が偽でないなら、批判は失敗である。しかし、偽とされる帰結が帰結でないとしたら、それもまた失敗である。したがって、批判は、いわゆる批判的論証なるものについての批判的評価によって、そらされるかもしれないし、合理的な人間はそれを先取りして、前もってそらそうとするかもしれない。私には、批判をはねつけようとするそうした防衛的準備は、正当化における無駄な試みと同じように軽率さに向かうものであると思われる。(この段落の主要論点は、最初にジャーヴィー(Jarvie [1995], p.126.)によって明確にされた。)
 最初に述べておいたように、私は完全に自覚しているつもりであるが、今日私が語ったことは、ポスト・モダニストと伝統的合理主義者の双方にとって、まさにポスト・モダニスムと同じように聞こえたことであろう(註1)。私がそう言ってはじめたように、その種のものではまったくないということを強調して、本稿を閉じる必要がある。相違点は、客観的に正当化された真理はないという洞察にどう対応するかという点にある。ポストモダニストや、他の多くの流行にのった(ローティーのような)賢人は、正当化の価値への信念を保持し、真理をつまらない妄想として捨て去っている。批判的合理主義者は、可能なかぎりもっとも鋭い対比を描くわけだが、真理の価値への信念を保持して、正当化をつまらない妄想として捨て去る。レッシャーの評価(Rescher [1992], p. xxx)、つまり、「カール・ポパーは、長いあいだ雄弁に、科学においては真理請求を慎まなければならない、と主張していた」といった評価が蔓延しているにもかかわらず、私は、批判的合理主義者が放棄したのは真理ではなく、正当化された真理だけであると約束できる。私は正当化について懐疑的であるが、もちろん、真理についてはまったくもって懐疑的ではない。そして私は、われわれは世界についての正当化されていない知識をもつことができるばかりでなく、この知識を改善する方法(必ずしもあてになる方法ではないが)をもっていると考える。私は、妥当な論証であってさえなにごとも正当化できないと考えるが、私は非合理主義者ではない。というのも、われわれは犯してしまった過ちを除去しようと試みるにあたって、妥当な論証を絶え間なく展開すると思うからである。私は、自分の推奨する立場に好都合な何らかの論証を提出しようと試みはしなかったが、あなたがしようとするどんな批判も大いに歓迎する。

(註1)ポパーの死後二日後のことであるが、一九九四年九月一九日付けの『ガーディアン』誌のタブロイド版第一二ページの記事において、ポパーはジョナサン・リーによって「ポスト・モダニストの最初で最高の人」と述べられた。これは、疑いもなく、賛辞のつもりであったのだろうが、真理と正当化についてのポスト・モダニズムの混同、つまり、ポパーの哲学がかくも建設的に反対した当の混同を、よく考えもせずに鵜呑みにした人によってのみなしえた論評である。リーの「肝をつぶすような判断」の訂正については、Derek Freeman, 'Karl Popper and Postmodernism',The Canbera Times, September 27, 1994を参照されたい。

参照文献

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Jarvie, I. C. [1995]: 'The Justificationist Roots of Relativism', pp.52-70, 125-128 of C. M. Lewis, editor, Relativism & Religion, Macmillan
Lipton, P. [1995]: 'Popper and Reliabilism', pp.31 -43 of A. O'Hear, editor, Karl Popper: Philosophy & Problems, Cambridge University Press, Cambridge
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Pargetter, R. & Bigelow, J. [1997]: 'The Validation of Induction', The Australasian Journal of Philosophy 75, 1, pp.62-76
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Zahar, E. G. [1983]: 'Logic of Discovery or Psychology of Invention?', The British Journal for the Philosophy of Science 34, 3, pp.243-261