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著者:
根岸毅(ねぎし・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・政治学専攻
 
 
出典:
慶應義塾大学法学研究会『法学研究』第70巻第2号、1997年2月、11-34ページ。
Copyright (C) 1997 by NEGISHI, Takeshi
 
 
     規範的な議論の構成と必要性
 
        目 次
 
    一 規範的な議論の特徴
    二 規範的な議論の構成要素
     A 個人の思考の局面
        ・価値意識の源泉
        ・評価の基礎となる思考方法
        ・目的の実現と問題解決
     B 集団の規準への転化の局面
        ・他者の説得
        ・政府による行動規制の提案
    三 規範的な議論の必要性
        ・社会科学における「科学崇拝」がもたらしたもの
        ・問題解決に対する学問の手引きの必要性
        ・規範的な議論の必要性と限界
    四 規範的な議論から問題解決のための議論へ
    五 放送制度の分析視角
     A 放送制度の目的
        ・法解釈の一般的な問題点
        ・表現の自由
     B 手段としての放送制度
        ・「未成熟な基本権」論と経済学の貢献
        ・番組編成の「政治的公平性」
 
 
 私たち放送法研究会は、大規模情報活動を対象として「規範的な」議論を行なおうとしている。★ ところで、同じ対象に関しては、「非規範的な」観点からの分析も行なわれており、この種の研究が方法論としてはもてはやされる傾きがある。(1) 私が、規範的な観点からの分析の必要性を再確認しようとするのは、このような事情があるからである。
 「なぜ規範的な議論が必要か」という問に答を出すためには、まず「規範的な議論とは何か」が明らかになっている必要がある。議論が規範的であるということはどういうことであろうか。以下ではこれを明らかにした上で、なぜそのような考察方法が必要なのかを明らかにすることにする。
 
★ 本稿は、放送法研究会での共同研究の方法論的方向づけのために書かれたものである。放送法研究会は、1988年に慶應義塾大学新聞研究所の外郭の研究会として組織された団体で、1994年8月には根岸毅・堀部政男編『放送・通信新時代の制度デザイン』(日本評論社)を出版している。また、現在(1996年)は、財団法人放送文化基金の助成金を得て、共同研究「放送・通信法制のメタ理論」を行なっている。
(1) この傾向については、『放送・通信新時代の制度デザイン』の3ページ註1でも指摘した。
 
 
   一 規範的な議論の特徴
 議論が「規範的である」というのは、どのような事態を指すのであろうか。
 議論が規範的であるとき、論者は、特定の事物(物や出来事――人の行動を含む)について、それが「いかにあるべきか」(当為)を示そうとする。その際、論者は、自分の主張の正当化のため、その根拠もまた示そうとする。(1) この根拠が「規範」である。規範とは「われわれの評価作用が必ず従わねばならない規準」であるとされる。(2) 
 当為は、必然または存在に対比され、「まさになすべきこと」「まさにあるべきこと」を意味する。(3) 当為を示す日本語の表現形式の「べき」(「べし」の連体形)は、「個々の主観を超えた理のあることを納得して下す判断であることを示す」助動詞であるとされる。(4) この記述を手掛かりとして、つぎの二点について考えてみたい。
 その一は、上の記述にいう「個々の主観を超える」とはどのような事態を指すかの問題である。いいかえれば、「べき」の主張が求める「普遍妥当性」(5) と個人の判断の関係である。
 上の記述にしたがえば、「べき」の表現をとるとき、論者一人ひとりは、自分の主張に「個々の主観を超えた理がある」との納得をしていることになる。とすれば、「個々の主観を超えた」とは、個人の判断を否定するものではありえないことになる。それは、「個人の判断」でありながら「たんなる個人の判断以上のもの」である必要がある。この「以上のもの」とは、「べき」の普遍妥当性の含意から、同じ判断を共有する諸個人の範囲が「すべて」に広がった場合でなければならない。かくして、「個々の主観を超えた理がある」とは、「そのようなレッテルを貼ってだれもが受け容れる」ということになる。ところで、人は自分にとって好ましくないものを受け容れることは決してしないから、「個々の主観を超えた理」とは、「すべての個人が『自分にとって好ましい』と判断して受け容れるもの」ということになる。(6) (7) 
 その二は、「個々の主観を超えた理」がはたして存在するかの問題である。
 その存否は、現時点ではだれにも明言できない。しかし、それが否定もできないからこそ、私たちはその理を求めて規範的な議論を行なうことになる。したがって、有り体にいえば、「べき」の表現をとるときの論者は、「個々の主観を超えた理」が「ある」発言をしているのではなく、自分の主張にそのような理があることを「願って」発言しているに過ぎない。
 以上が正しいとすれば、規範的な議論を行なうということは、具体的にはつぎの事態を意味すると理解する必要がある。
 規範的な議論を行なうとき、私たちは、^自分にとって、研究対象の事物のあり様には「好ましい」「好ましくない」の区別があり、その事物をその「好ましい」状態にしたいと考えている。(8) くわえて、私たちは、必要とあらば、_自分が「好ましい」と考えるあり様が他の人びとにも受け容れられ、その事物が実際にそのような状態になることを望んでいる。
 このような議論が行なわれるとき、私たちはその議論を「規範的である」と呼ぶ。
 
(1) 『広辞苑』(第四版、岩波書店・1991年)によれば、規範学とは、「対象としての事実を記述する経験科学に対し、対象がいかにあるべきかという当為を問題とし、またその基準として価値・規範を考える学問」と規定される。同様の指摘は『哲学事典』(平凡社・昭和46年)、314ページにもある。
(2) 『哲学事典』、313ページ。『広辞苑』によれば、規範とは「判断・評価または行為などの拠るべき基準」とされる。
(3) 『広辞苑』。同様の指摘は『哲学事典』(999ページ)にもある。
(4) 『広辞苑』。
(5) 「いかにあるべきか」を論ずる者は、みずからの主張の「普遍妥当性」を求めている。(参照、『哲学事典』、313ページ。)
(6) 価値について述べられる「普遍妥当性」とは、この意味以外ではありえない。「だれもが受け容れる」と言わずに「普遍妥当」と言うのは、ある主張をすべての人に受け容れさせるための、上手い説得の方法・戦略であると考えられる。(こう言うことで、説得相手の、個人としての判断の契機を抑えることができる。)
 また、この属性をもつ主張は、「個人にとって好ましい」のみならず、「理にかなっている」という意味で「正しい」ものとなる。
(7) 本文中の「受け容れる」には、つぎの二つの場合が区別される。第一は、ある主張の意味するものが「自分にとって好ましい」と、論理的に認めることである。(この場合も、論理的思考能力が不十分であり、その能力を十分に備えた者であれば認められるものが認められない者もありうるが、本稿ではこの事態まで論ずる必要はない。)第二は、その主張に従って実際に行動を起こすことである。本稿の文脈においては、「受け容れる」に第二の意味まで含める必要はない。
(8) すくなくとも本稿の文脈においては、「好ましい」と「望ましい」を区別する必要はない。両者は同一の事態の異なる側面に光を当てている。前者は対象の自分にとっての効用に力点があり、後者はそれを手に入れることの必要性に力点がある。同一の立脚点から見て、「好ましいが望ましくないもの」、「望ましいが好ましくないもの」はありえない。
 
 
   二 規範的な議論の構成要素
 規範的な議論には、論者個人の思考の局面と、その思考の結果が他者とかかわりをもち、ついには社会的な規準に転化する局面の二つの局面がある。
 
    A 個人の思考の局面
 規範的な議論は、論者個人が対象の事物の状態に「好ましい」「好ましくない」の区別をつけることに始まる。これは一体どのような作業であろうか。
 
     ・価値意識の源泉
 規範的な議論の出発点となる「自分にとっての好ましさ」の認識は、つぎに説明する「価値の色づけ」の場面での出来事である。
 私たちは、生活環境の「眺め」を形づくり、その情報のなかで生活を営んでいる。この眺めには、二つの「書き込み」がしてあるという意味で、「観光地図」に準えることができる。(1)
 その一は、環境の自然的(物理的)な状態の記述である。これは、環境の事物(事実)としての情報である。観光地図でいえば、湖や山の位置などがそれに当たる。その二は、環境に対する私たちの生活反応の記録である。いいかえればこれは、事物としての環境に対する「価値の色づけ」である。観光地図でいえば、路面の状況に対する運転上の注意事項などがそれに当たる。私たちの環境の眺めにおいては、この二つすなわち「事実と価値」は、つねに「二重写し」「重ね合わせ」になって存在している。
 ここでいう「価値」とは、ある事物がもつ、「特定の目的を実現するための手段となりうるか否か」の観点から判断される性質のことである。(2) 私たちは、生活のある場面で、実現したいある目的を意識しており、その実現に役立つと思われる事物に対しては、そのものの物理的な状態を事実として認識していると同時に、その目的の実現に役立つ性質を「好ましさ」として捉えている。これが、「事実と価値の重ね合わせ」と呼べる状態である。
 私たちが事物の状態に「好ましい」「好ましくない」の区別をつける大方の場合は、このようにして説明がつく。ところで、目的と手段の関係は相対的である。ある目的の実現に役立つとされ、したがってその手段と見做される事物は、その事物の実現に役立つ別の事物からみれば目的の身分をもっている。これは、論理的には、それ以上目的方向に遡ることができないという意味で「根源的な」または「第一義的な」目的が存在することを意味する。その限られた数の根源的な目的の「好ましさ」は、上のようには説明できず、それに内在的な形で価値の根拠を示す必要がある。
 しかし、第一義的な目的の場合も、なんらかの上位の目的の手段と考えられる場合も、「好ましい」と考えられるものは、そう考える人が行動を起こしてその実現を図ろうとするもの、その意味で「目的」である。つまり、ある状態を「好ましい」と考えることは、当然、その状態を「目的」と見做し、その実現を望み、そのために必要な行動を起こそうとすることを意味する。ある状態を好ましいとするにもかかわらずその実現を望まないのは、論理矛盾か、欺瞞かのいずれかである。私たちが事物の状態に、自分にとっての「好ましい」「好ましくない」の区別をつけるというのは、自分が実現したい目的を特定することを意味する。
 
     ・評価の基礎となる思考方法
 「好ましさ」の意識は、複数の事物の比較から生まれる。すなわち、ある目的の実現の観点から、複数の事物がもつその目的の実現に役立つ性質が比較されるとき、それぞれの事物の好ましさの度合いが認識される。この認識には、目的や手段と考えられる事物を「変数」と「その値」の観念で捉え、目的に対応する変数と手段に対応する変数の間の「関数関係」を事実として確定すること、より具体的にはつぎの思考方法が必要である。
 
 実際に存在し、直接私たちの目にとまり、評価の対象となるのは、特定の事物である。この事物と比較対照される別の事物は、この事物を特定の変数(この変数をxとする)が一定の値(たとえばx1)を取ったものとして認識するときにはじめて「見えて」くる。つまり、後者(別の事物)は、多くの場合いまは直接私たちの目にとまるもの、実際に存在するものではないが、その変数が別の値(たとえばx2)を取ったものとして認識(想像)される必要がある。
 これらの事物がその実現に役立つまたはその実現を阻害すると考えられる「目的」の状態もまた、ある変数(この変数をyとする)が特定の値(たとえばy2)を取ったものとして認識する必要がある。したがって、この変数が別の値(たとえばy1)を取った状態は、好ましくない、目的に値しないものとして認識されることになる。
 さらに、これらの事物がその目的との関連で「好ましい」または「好ましくない」と意識されるというのは、事実として、両変数の間に関数の関係が存在するということを意味する。すなわち、両者の関係は y = f (x ) と記述できる。
 目的(変数yが値y2を取ったもの)は定義上「好ましい」ものである。これに対し、変数yが別の値(たとえばy1)をとったものは「好ましくない」または「不都合だ」「問題(3)がある」と評価される。
 変数xが「好ましい」状態にあるというのは、それが、変数yに目的の値(y2)を取らせる値(たとえばx2)を取っているということである。いいかえれば、この場合、変数xが値x2を取れば変数yの値はy2となり、所期の目的が実現されることになり、変数xが値x2を取った状態を生起させることはその目的に対する「手段」の身分をもっていると言うことができる。
 ある手段が目的の実現に役立つというのは、目的と手段の間にこのような関数関係が存在することを意味し、その場合その手段は「好ましい」と評価される。また、変数xが別の値(たとえばx1)を取れば、変数yの値はy2とはならず(たとえばy1となる)、この場合所期の目的の実現はならない。したがって、この変数がこの値を取った状態は、この目的実現との関連では「好ましくない」または「不都合だ」「問題がある」と評価され、この目的実現の手段とは考えられない。
 
     ・目的の実現と問題解決
 実現したい目的を特定するということは、いいかえれば問題解決を目論むことである。「問題解決」とは、目的の実現に役立つ手段を見つけだし、その手段を実際に講じてその目的を実現すること、裏返せば、不都合、障害、問題と考えられる状態を取り除くことである。
 問題解決を果すためには、目的を特定する作業と、その実現に役立つ手段を見つけだす作業の双方が必要になる。前者は価値に関する議論である。これを「哲学」と呼ぶこともできる。後者が見つけだそうとする手段とは、変数yに目的の状態に対応する値(たとえばy2)を取らせるような変数xの値(たとえばx2)に当たる事物を生起させることである。これを見つけだすためには、その前提として、変数yと変数xの間に存在する関数の関係を事実として確定する作業が必要となる。これを「科学」と呼ぶことができる。その意味で、問題解決の作業では、哲学と科学が、一つの目的の実現に向けて有機的に結びつけられている。
 「規範的」と呼ばれる議論は、対象のあるべき状態すなわち目的を特定しようとする作業のみにかかわっている。(その対象を、より上位の目的状態との間に事実として存在する関数関係にもとづき、それを実現する手段として特定しているのではない。)したがって、問題解決の観点からすれば、それは、それ自体で完結したものではなく、問題解決のために必要な議論の一構成要素であるに過ぎないことになる。このことは、いわゆる規範的な議論につなげて、それが特定する目的を実現するための手段に関する「科学的な」議論が行なわれる必要があることを意味する。(4)
 
(1) この考えは、沢田允茂『認識の風景』岩波書店・1975年に手を加えたものである。
(2) 参照、沢田『認識の風景』、144-147ページ。
(3) 「問題」は、人間が生きて行く上での障害の意味に限定する。参照、根岸毅『政治学と国家』慶應通信・1990年、104-105ページ註1。
(4) 参照、根岸毅「工学に欠けるもの、政治学に欠けるもの」(『法学研究』第58巻第8号)。
 
 
    B 集団の規準への転化の局面
 すでに論じたように、規範的な議論の出発点は、論者個人の「自分にとっての好ましさ」の認識にある。すなわち、研究対象の事物に自分にとっての「好ましい」「好ましくない」の区別をつけ、みずから行動を起こしてでも、その事物をそのような「好ましい」状態にしたいと考えることである。
 対象の事物をそのような状態にするためには、自分一人の行動で十分な場合と、自分一人の行動ではそれが実現できない場合とがある。前者は、たとえば、独り暮らしの人が自分の部屋をタバコの煙のない状態にしようという場合である。後者は、たとえば、何人もの人が集まる会議の席をタバコの煙のない状態にしようという場合である。
 後者の場合には、私たちは、他の人々を説得して自分の考えを受け容れさせ、それらの人々と協働行動をとることによってそれを実現しようとする。ここから、規範的な議論は個人の思考の領域を超え、社会的な広がりをもつことになる。
 
     ・他者の説得
 問題を解決するためには、必要とあらば、他者を説得しなければならない。その説得には二つの種類がある。一つは、実現すべき目的に関しての合意を取りつけるための説得であり、もう一つは、目的に関して合意がある場合の、その目的を実現する手段に関しての合意を取りつけるための説得である。
 ただし、すでに指摘したように、限られた数の第一義的な意味での目的を除けば、私たちが実現しようとする事物の状態を「目的」と呼ぶか「手段」と呼ぶかは相対的な問題である。その意味で、第一義的な意味での目的を除けば、ある事物の特定の状態を目的と認定するためには、それがより上位の目的とされる事物の状態の実現に役立つという「事実の認定」が不可欠である。したがって、ある事物の状態を第二義的な目的(手段)として他の人々に受け容れさせようとする議論は、より上位の目的を前提とし、その事物がその前提の実現に役立つという事実を根拠として明示する必要がある。これに対し、第一義的な意味での目的を他の人々に受け容れさせようとする議論は、いかなる上位の目的をも前提とせずに、その「好ましさ」の根拠を明らかにしなければならない。この種の議論すなわち目的として特定された事物がなぜに実現するに値するかの根拠を示す議論を「価値の論証」と呼ぶことにする。(1)
 
     ・政府による行動規制の提案
 他者を説得して協働行動をとることは、成功する場合もあれば、成功しない場合もある。それは、立論に論理的矛盾があり、説得力に欠ける場合もあれば、相手方が論理としては納得しても、実際にはそれを受け容れない場合もあるからである。(後者の例として、タバコが健康を害するとじゅうじゅう承知しながら、呼吸器疾患を患っている人――本人を含めてもよい――がいる家庭で喫煙を止めない人の場合をあげることができる。)説得が成功しなければ、協働行動をとることはできず、したがって目的の実現はかなわないことになる。
 この場合、協働行動が成立しないのは、よくも悪くも、説得には強制の契機が欠けているからである。この場合の「強制」とは、人に「協働行動をとる」「とらない」の選択肢を与え、本人に計算づくでそのいずれかを選択させる場合(ここまでは説得も同じ)に、後者の選択肢にその選択を思い留まらせるに足るほど大きなコストが付加された状況を作ることである。このような状況のもとでは、人はその過大なコストの負担を避けるため、(たとえ嫌々ではあっても)みずからの判断と意思で協働行動を選択することになる。
 したがって、一定範囲の人々の協働行動なしには実現できない目的に関しては、場合によっては、この種の強制の状況を作る努力が行なわれる。しかし、政府以外の装置によって作りだされる強制の状況は、付加するコストが十分に大きくはなく、必要な協働行動を生み出すことができない場合がある。
 ところが、「政府」は、そもそもこの種の強制を働かすための装置(機関)として存在する。その強制力は、他の装置が行使するそれとは比較にならないほど大きい。その具体的な強制手段は法律や条例の制定であり、その強制力を担保するものは刑罰(死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料、没収)や過料である。
 したがって、規範的な議論は、それが特定する目的の実現に必要な協働行動を確保する手段として、政府の強制力の活用を提案するところにまで及ぶことがある。この提案が他の人びとに受け容れられるためには、その種の協働行動の実現には政府の強制力を活用することをよしとする根拠の提示が必要である。その意味で、これは、すでに説明を加えた「他者の説得」の一つであるということができる。
 私たちが論じようとしている対象、すなわち大規模情報活動のあり様は、たんなる他者の説得の領域を超えて、政府の強制力を利用してでも実現したいと論者が考える類の目的である。
 
(1) 私たちは、日常生活で、複数の解決すべき問題に同時に直面し、複数の問題の解決に同時に努力するのが常態である。したがって、ある問題解決の文脈で目的とされ、その実現が図られる事態と、別の文脈でのそれが競合対立することがしばしば生じる。私が価値の論証と呼ぶ議論の一つは、他の問題解決の文脈での目的との競合対立関係を議論の構成上無視し、一つの特定の問題解決の文脈のみを考察対象とする議論である。この種の議論には、「他の条件にして等しければ…( . . . , other things being equal, . . . )」の但し書きがついている。価値の論証の議論の他の一つは、問題解決の複数の文脈での目的群の間の調整(折り合い)を論ずるものである。
 
 
 このようにして、規範的な議論は、^論者個人の「自分にとっての好ましさ」の考察すなわち自分の目的の特定から始まり、_その目的の実現のために必要な他者との協働行動を取りつけるための他者の説得――目的それ自体の価値の論証、または、より上位の目的の実現に役立つという事実の明示――に至り、場合によっては、ついには、`その協働行動を保証するための政府による行動規制の提案とそれをよしとする根拠の提示まで、その範囲に取り込むことになる。
 
 
   三 規範的な議論の必要性
 私たちが行なおうとしている大規模情報活動を対象とする研究、さらに、広い範囲の社会科学の領域では、規範的な議論の必要性が再確認されなければならない状況がある。(1)
 
     ・社会科学における「科学崇拝」がもたらしたもの
 第二次大戦直後までの社会科学は、広い領域で、「社会はいかにあるべきか」を主として論じており、物理学、化学、天文学などの自然科学が行なっているような「事実の解明」――事実はどうなっているか、それはどのような仕組みでそうなっているのか――はほとんど行なっていなかった。(2) この状態は後に「科学的ではない」として批判され、社会科学の分野でも、事実の解明に力を集中する型の研究がよしとされるようになった。
 社会科学におけるこの方法論の転換は、「科学」と「価値自由」を標榜して行なわれた。それは、それまでの社会科学の基本的な設問(Why donユt they act as they should?)が放棄され、新たな設問(Why do they act as they do?)にとって代わられる過程であった。(3) その結果、とくに社会生活の領域で、「私たちが生きる上での目的は何か」、「どのように問題解決を行なったらいいか」の問が、よくて軽視、悪くいえば否定されることとなった。(4) 
 
     ・問題解決に対する学問の手引きの必要性
 ところで、社会科学で上の方法論的転換が生じる前も、後も、自然科学の領域では、人がうまく生きるために学問が手引きを行なうということは、当たり前のこととして行なわれており、大きな実績を上げている。たとえば、医学による癌の治癒率の向上、自動車工学による乗用車の安全性の向上、コンピュータ・サイエンスによる使い勝手のよいコンピュータの開発、応用化学にもとづく工場排煙脱硫装置の開発などがその成果であり、他の例は枚挙にいとまがない。
 これは、つぎの二つのことを意味する。
 一つは、社会科学者が上の方法論的転換を行なった際に、大きな誤解をしていたということである。科学を追求したとしても、問題解決の観点を放棄する必要はなかったはずである。問題解決のための学問の一構成要素である、目的すなわち問題解決の方向の特定の作業(規範的な議論)を軽視したり、否定したりする必要はなかったはずである。
 その二は、私たちがうまく生きて行くためには、やはり、問題解決に学問(知識)の手引きが必要だということである。そして、社会科学において「科学」を標榜する方法論が社会問題の解決に対する知識の手引きを軽視または否定したのであれば、その手引きの必要性の再確認、その種の知識の再生が意識して図られる必要がある。
 その手引きを提供するという目的に特化して構成された学問が、問題解決のための学問である。これを私は「工学」と呼ぶ。(5) 上に列挙した学問分野は、いずれもこの意味での工学である。それらは、問題解決の方向(目的)を特定する作業とともに、その目的を実現するために必要な手段の開発を、科学的に行なっている。
 
     ・規範的な議論の必要性と限界
 以上で明らかになったのは、社会科学がかかわる領域においても、問題解決に学問の手引きが必要だということ、その手引きの提供に特化して構成された学問(問題解決のための学問、すなわち工学)の再生が意識して図られる必要があるということである。
 ところで、いわゆる規範的な議論は、問題解決の目的を特定し、それが目的に値する根拠を提示する作業であり、問題解決のための学問の不可欠な構成要素である。その意味で、規範的な議論は、私たちがうまく生きるために必要不可欠の存在であり、その再生が意識して図られる必要がある。ただし、それは、目的の特定に特化しており、問題解決に必要な作業の一部しか行わないという意味で、問題解決の観点からすれば十全ではない。いわゆる規範的な議論だけでは、問題解決の道具としての存在理由を十分に満たすことはできない。それが満たされるためには、規範的な議論のたんなる再生を超えて、それに不足する部分――規範的な議論が特定する目的の実現に必要な手段の案出に役立つ部分――の提供までが、「科学的な」観点から行なわれる必要がある。
 念のために付けくわえれば、規範的な議論自体、事実認識と無縁のところでは成立しえない。すでに指摘したように、目的に関する合意を取りつけるための他者の説得には、より上位の目的の実現に役立つという事実の確認が必要である。これは科学の仕事でもある。したがって、科学的認識と無縁の規範的な議論は、その意味でも限界をもつことになる。
 
(1) 念のために指摘しておけば、規範的な議論が必要だということは、非規範的な研究が不必要だということを意味しない。
(2) 参照、石本新「二つの社会科学――古典的社会科学と社会工学的社会科学」(碧海純一他編『科学時代の哲学 1 論理・科学・哲学』培風館・1964年)、210, 217ページ。
(3) これらの設問の意味の違いについては、参照、根岸毅「政治学とは何か」(根岸毅他『国家の解剖学』日本評論社・1994年)、51-52ページ。
(4) 政治学における事情については、参照、根岸「政治学とは何か」、67-72ページ。
(5) 参照、根岸「政治学とは何か」、52-56ページ。工学は、そのような特化をしていない型の学問(理学)とは異なる構成原理をもっている。その特徴は、「そもそもの被説明変数」の値の変化がなんらかの価値の高低に対応づけられていることと、その他の被説明変数はすべて、より上位の「象限」での説明変数が「見立て直されて」被説明変数となったものである。
 
 
   四 規範的な議論から問題解決のための議論へ
 社会科学の分野の研究者は、みずからの研究に被せる形容詞の「規範的」を、一種独特の優越感をもって使ってきたように思われる。しかし、規範的な議論がそれ自体では完結したものではなく、問題解決のための学問の一構成要素でしかないとすれば、「規範的」の形容詞とそれが指し示す研究の実態に固執することは、研究者に課せられている社会的責任が理解できない者の自己満足に過ぎなくなる。
 私たちは、これまで「規範的な議論」を展開してきた場面で、全面的に「問題解決のための議論」を行なう必要がある。(1) たんに対象の事物の「あるべき状態」はなにかとだけ問うのではなく、対象はどのような問題を孕んでおり、それはどうすれば解決できるか――実現したいのはどのような状態(目的)で、その実現のためにはどのような手段を講ずればいいか――を問う必要がある。
 
 すでに指摘したように、いわゆる規範的な議論は、人が行動を起こして実現を目論む目的の特定と、それが目的にふさわしいとする根拠の提示に特化した考察である。これを問題解決のために必要な作業の一環であると理解すれば、すぐに思いつくのは目的から手段を探求する視角である。これはしばしば行なわれる議論である。
 ところで、発想の転換をはかると、逆に手段から目的を見る視角が見えてくる。これは、多くの社会制度がそうであるように、通常、それがなんらかの目的に対する手段であることも、その目的が何であるかも明確には意識されないものを、問題解決の観点から分析する場合にはとくに有効である。上に展開した議論のなかにこの視角を位置づけると、それは、他者の説得に必要な「より上位の目的の実現に役立つという事実の確認」の作業に当たる。
 ここから、つぎのような問題設定が出てくる。
 
 これまでに、大規模情報活動に関してさまざまな提案がなされ、それが各種の法制度に結実してきた。問題解決の観点からすれば、それらはすべて「目的―手段」の関連で案出された道具(手段)であるはずであり、個々に、それが実現に役立つことを期待されている特有の目的を指摘できるはずである。この観点から、個々の法制度について、つぎの確認を行なってみるのは意義深い。
 
^ 立法過程の研究により個々の法制度に固有の目的を確認する
 多くの場合、各制度には明示された制度目的が存在する。立法過程の分析は、その目的の詳細を明らかにしてくれる。また、なかには、たとえば政治的駆け引きの産物として生み出された結果、明示された目的がたんなるお題目であり、別に隠された意図(目的)があることが判明する場合もあろう。このような分析結果は、この種の制度の評価、ひいては改定や廃棄に必要な知見を与えてくれるはずである。
 
_ 個々の法制度がそれに固有の目的の実現にどの程度役立っているかを事実として確認する
 ある制度が、明示されている目的の実現に役立っているかいないかを、事実の問題として解明できれば、その目的が立法者の意図にもかかわらず、制度目的と呼ぶにふさわしいかどうかが確認できる。また、その解明の結果、意図された目的に対する手段としての制度の有効性の改善に、具体的な提言が可能となる。
 
`[以上の^と_に依拠しながら]「目的―手段」のつながりを目的方向に遡ることで、個々の法制度が拠って立つ根拠を確認する
 ある制度の立法者が意図した目的や、それが実際にどのような事態の実現に役立っているかを解明するだけでなく、さらにその上位に目的を遡ることで、その制度のこれまで隠されていたより根源的な目的――望ましさの根拠――が確認できる。この分析により、その制度のこれまで言われてきた存在理由の妥当性がより深く検討できる。
 
(1) 私が全面的展開が必要だというのは、研究体制(学のあり方)としてのことで、個々の研究者が一人ですべての局面での研究活動を行なわなければならないということではない。
 
 
   五 放送制度の分析視角
 以上に述べた分析の視角を、放送制度論に当てはめてみよう。以下では、浜田純一が「放送制度論における規範の内と外」(東京大学社会情報研究所編『放送制度論のパラダイム』東京大学出版会・1994年)で紹介した放送制度のあり方についてのさまざまな分野――憲法論、コミュニケーション論(社会心理学)、経済学、ジャーナリズム論――からの研究成果と、同氏によるそれらの整理を材料として論じてみる。(1)
 
(1) 以下は、1995年6月17日に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで開催された情報通信学会大会の書評セッション(B)で、私が同論文に対して行なった論評をもとにしたものである。
 
    A 放送制度の目的
 問題解決の文脈では、なんらかの社会制度を作る場合、それを手段として実現が目論まれる目的が明らかにされる必要がある。
 
     ・法解釈の一般的な問題点
 放送制度は憲法学の立場からも論じられる。憲法学をその一部とする法律論は、法規範を前提とし、その枠内で議論を展開する。すなわち、それが行なう法の規定の解釈では、法の規定自体は所与であり、検討の対象とはならない。
 ところで、憲法も含めて法の規定は、「立法者が、ある目的(状態)を実現する手段の役を果たす――ある状況において、その規定を人びとの選択行動に対する与件として設定すると、人びとの行動がその(目的)状態になる――と判断して設定したもの」である。この立法者の事実判断は、立法時点の状況の下で正しかったかも知れないし、間違っていたかも知れない。また、かりにそれが正しかったとしても、状況の変化により、現在は、その手段ではその目的が実現できなくなっているかも知れない。その意味で、問題解決の文脈では、法の規定自体の適切さ――前提となる目的状態の実現に役立つ度合い――が問われる必要がある。
 ところが、法解釈では、法の規定自体は検討の対象としない。したがって、解釈といいながらその実、つぎの作業が行なわれることになる。
 法の規定が「ある目的(状態)を実現する手段」として設定されたものであることから、その解釈はその手段のあり様を記述する作業になる。しかし、多くの場合、目的は明示的に与えられてはいない。また、解釈の過程で目的について明言することも少ない。したがって、(法解釈方法論として日本では少数派である立法者意思説の場合を除けば、)解釈者は、目的を暗黙裡かつ自分なりに設定し、その実現に役立つと自分が考える手段のあり様を解釈の内容として提示することになる。つまり、解釈は、手段を特定することを通じて、明言はせずに目的を設定する作業になる。
 したがって、問題解決の文脈からすると、法律論にはつぎの二つの立論上の問題点があることになる。その一は「目的の設定が行なわれているにもかかわらず、それが隠れたところで行なわれる」不都合であり、その二は「手段の検討が、目的の実現に役立つ度合いを十分には意識せずに行なわれる」不都合である。
 
     ・表現の自由
 以上に指摘した法解釈の一般的な問題点は、放送制度との関連ではつぎのところに現われている。
 法律論やジャーナリズム論が放送制度を論ずる場合、「表現の自由」を保障する憲法第21条の規定はその出発点である。いいかえれば、表現の自由が保障された状態(G)が放送制度の目的とされる。
 浜田によれば、表現の自由には二つの側面があると解釈される。それらはつぎの二つである。(浜田論文、30ページ。)
 
  G1=[主観的側面]表現主体が意見や情報を規制されずに表明する状態
  G2=[客観的側面]意見や情報が社会に多様に流通する状態
 
 すでに指摘したように、憲法の条文も、さらにその先に想定されるなんらかの目的状態を実現するための手段として設定されている。表現の自由の規定も、そのようなより上位の目的に対する手段である。浜田の指摘する表現の自由の二側面は、「同氏が明示はしないが望ましいと考えるより上位の目的状態を実現するために必要だと同氏が判断する手段のあり様を記述している」と理解する必要がある。
 この議論で問題なのは、「その根拠の吟味なしに、隠れたところで(より上位の)目的の設定が行なわれている」ことである。したがって、問題解決の作業の立場から問う必要があるのは、この明示されていない目的はなんであるか、それを好ましいとする根拠はなにかである。その意味で、この種の議論には、価値の論証の作業が欠落している。(表現の自由の価値について、人びとの間に疑念が全く存在しないならばその必要はないが。)
 また、ここには、「法の規定の解釈すなわち手段の記述が、目的・手段の整合性を明確には意識せずに――前提とする目的の実現に役立つという事実の明確な確認なしに――行なわれている」という問題もある。
 具体的にいえば、G2の「社会に多様に流通する」とはどのような状態をさすのであろうか。これは、「多様に」と「社会に流通する」の二つの部分に分けて検討する必要があるであろう。ところが、それらの意味はすこぶる曖昧である。「多様に」は「複数であればよい」という意味なのか、「人に知られているすべての知識と情報」の意味なのかは明らかでない。「社会に流通する」は、「どこかにあって、誰でもアクセスすれば入手できる状態にある」という意味なのか、「一般人が容易にアクセスできる経路に存在しており、したがって一般人に容易に入手されうる状態にある」ということなのか、また別の意味なのか。これらの意味の確定は、明示されていない目的の確定と、それに対する手段としての整合性の吟味がなくては不可能である。
 同様に、G1とG2が(優先順位も含めて)いかなる関係にあるかの確定も、目的との関連でしか行なえない作業である。
 
    B 手段としての放送制度
 問題解決の文脈では、なんらかの社会制度を作る場合、それを手段として実現が目論まれる目的を明らかにし、制度はその目的に適合した手段として構築される必要がある。
 
     ・「未成熟な基本権」論と経済学の貢献
 浜田は、特段の手段を講じなくてもG1の実現がそのままG2の実現につながる場合(新聞)と、特段の手段を講じないとG1の実現がG2の実現につながらない場合(放送)があることを指摘する。同氏は、放送のこの状態を「未成熟」と呼ぶ。(浜田論文、31ページ。)
 特段の手段の有無にかかわらず、新聞の場合も放送の場合も、浜田が実現したい目的状態は同じG2である。したがって、浜田のいう「成熟・未成熟」は、手段である政府規制の不存在・存在に対応している。つまり、これらの用語で示される価値の高低は、手段に対する評価の高低に対応している。有り体にいえば、これらの用語は「政府規制があるよりは、ない方が望ましい」という浜田の価値判断を表わしている。この価値判断を表明するだけであるならば、「成熟・未成熟」の用語は使わないで、たんに「放送制度を構築する上で、政府規制は可能な限り避けたい」と言った方が、議論に混乱を招かないという意味で好ましい。
 G2を目的として「放送制度を構築する上で、政府規制は可能な限り避けたい」ということになれば、問題解決の文脈で問うべきことは、「G2の状態を実現するためには、表現主体(新聞、放送)の表現規制(一律、部分的)を含めて、どのような手段が必要か」である。ここに、経済学が貢献できる場がある。
 浜田は、経済学には、放送に対する政府規制の目的(状態)が、市場と私企業間の自由競争で実現できるかについてのさまざまな研究成果がある、と指摘する(浜田論文、36-37ページ)。それにもかかわらず、浜田は放送制度と経済学のかかわりを、多様な様相を示している現代の人間を経済人の枠組み(経済合理主義)のみに還元することはできない、経済現象と文化現象が複合する放送の領域は一元的な人間像では説明できない、の二点に集約する(浜田論文、37ページ)。
 放送制度を構築する観点からは、この集約は的を射ていない。G2の状態を実現するためにはどのような手段が必要かの観点から検討すべきなのは、経済学が拠って立つ経済人モデルの有効性を問う類の大問題ではない。ここで問う必要があるのは、「『表現の自由』のことばで観念される状態(目的)が、市場における視聴者と放送事業者の個々の判断の積み重ねという手段を通じて実現できるか」である。より具体的にいえば、G2は一種の「公益」であるが、個々の判断は「私益」にもとづくものであり、「放送の場合、私益の積み重ねから公益をもたらすにはどのような与件操作が必要か」が問われる必要がある。
 
     ・番組編成の「政治的公平性」
 浜田は、放送の番組編成準則の「政治的公平性」に関するジャーナリズム論の成果をつぎのように要約している。^学説の多くは、政府介入の危険性を小さくするため、この準則の遵守義務を精神規定と理解している。_政治的公平性の解釈には積極説、消極説があるが、「いずれの解釈を採用するにしても、具体的に何が公平かということを決定するのは決して容易ではな」い。しかし、報道には主観的判断が入らざるをえないから、公平性も「修正のメカニズムを内在させた暫定的な公平性」のみが存在しうる。(浜田論文、39-41ページ。)
 放送制度を構築する際の目的は表現の自由の保障にある。また、すでに指摘したように、法の規定は「なんらかの目的(状態)を実現する手段」として設定されたものである。とすれば、問題解決の文脈では、「政治的公平性」の要請は、表現の自由――この場合はとくにその客観的側面(G2)――を実現するのに役立つ手段の一つでなければならないことになる。
 その認識があったかどうかは別として、立法者が行なった作業はこのようなものである。この文脈で私たちが問うべきは、「何が公平か」ではなく、「どうすればG2が実現できるか」である。いいかえれば、「表現の自由(G2)をもたらす形での放送事業運営の一側面を『公平』と呼べばよい」のであって、まずことばありきの概念解釈論争は無用である。
 このように考えると、立法過程において、番組編成準則の1から4の各号が、どれほど目的・手段の関連の吟味にもとづいて規定されたか、その手段としての適合性の判断がどれほど正しかったか、は疑ってかかってよいことである。(1)
 
(1) 同様の観点から、「多様性」「多元性」「中立性」などの観念も、問題解決の文脈で再構築する必要がある。
 
 
Copyright (C) 1997 by NEGISHI, Takeshi
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《「規範的な議論の構成と必要性」終わり》