博士課程院生研究紹介

ロバート・フィルマーを中心とした十七世紀イングランドの政治思想
古田 拓也

本研究テーマに関する発表

発表者氏名
(著者・講演者)
発表課題名
(著書名・論文名・演題)
発表学術誌名
(著書発行所・講演学会)
学術誌発行年月
(著書発行年月・講演年月)
古田拓也 「事実があたえられているのに、なぜ虚構を探し求めるのか」
――フィルマーの契約説批判とロックによる再構築――
『イギリス哲学研究』 2014年、3月掲載予定
古田拓也 書評Cesare Cuttica and Glenn Burgess eds., Monarchism and Absolutism in Early Modern Europe, (Pickering and Chatto, 2012, xiii + 297pp.) 『イギリス哲学研究』 2014年、3月掲載予定
古田拓也 書評Cesare Cuttica, Sir Robert Filmer (1588-1653) and the patriotic monarch : Patriarchalism in Seventeenth-Century Political Thought (Manchester: Manchester University Press, 2012) 『イギリス哲学研究』 2013年、12月

研究成果実績の概要

 私が主として研究しているロバート・フィルマー(1588-1653)は、一般的には、その王権神授説や家父長論が、ジョン・ロックに批判されたことで歴史に名を残している。日本においては、彼の思想は戦前日本のイデオロギーと同型のものとみなされ、それゆえ戦後直後には、フィルマー的思想構造からの脱却とロック的思考への移行が唱えられた。
 私は、こうしたアナクロニスティックな理解を排して、彼が当時の言語構造の中で何を行っていたのかを明らかにしたいと考えている(ただし、このような理解が日本の政治理論上で果たした役割は重要であり、今現在、日本におけるフィルマーの利用のされ方についての論文を準備している)。フィルマーを歴史的に理解するという成果の一部が、これまで発表してきた「国家なき主権論――ロバート・フィルマーにおける神と父」や「なぜ『パトリアーカ』は出版されなかったのか――ロバート・フィルマーの思想的『変遷』と『一貫性』」である。今年度の研究員在籍中に出版された二つの書評は、このプロジェクトの続きである。海外においても、これまでフィルマーは日本とさして違いの無い扱いをうけてきたが、近年チェーザレ・クッティカがこれに異を唱え、特に『パトリアーカ』という著作を取り巻くコンテクストと、その意義を解明した。『政治思想学会年報』の書評は、これを要約・紹介すると共に、彼の試みが政治思想研究一般に対して有する意味を論じた。また、もう一つの書評で取り上げたクッティカとグレン・バージェスによる編著は、伝統的解釈とも修正主義的解釈とも距離を取りつつ、様々な政治理論家が、なぜ、いかにして、どのような「絶対主義」を唱えたのか種々の角度から明らかにしようとした野心作である。この紹介を通じて、日本においても海外においても、絶対主義に反対した政治思想が注目を集めているが、その意義を測る上でも、絶対主義研究は今日いまだ必要であると論じた。
 このような思想史研究は、ときに単なる考古的な知識の獲得と区別がつかなくなるものである。しかし、私はむしろ、歴史的コンテクストに位置付け、彼の議論の力を適切に把握することで、はじめてフィルマーを研究する今日的意義を明らかにできると考えている。具体的に言えば、フィルマーを通じて思想史を見ることによって、フィルマーを葬ることで成立した政治思想上の「近代」が一体何を失ったかが明らかになるのである。その一つが、主権の「永続性」というテーマである。十六世紀後半から十七世紀にかけて、政治権力は一般的に「永続性」概念と密接な関わりを有していた。大雑把に言えば、フィルマーの政治理論は、「アダムの権利」に永続性を帰着させることによって、それによって主権者をあらゆる制限から解放しようと試みたものであった。フィルマーを批判したジョン・ロックはさらに、このアダムの権利をも放逐することによって、地上における「永続性」の観念を全て捨て去ることとなったと理解できる。研究員としての期間中『イギリス哲学研究』に発表した論文は、このテーマの序論ともいうべき部分である。私はこの論文において、フィルマーがそれまでの契約説をいかに批判したかを取り上げた。彼によれば、契約説は、事実上・理論上のアナーキーであって、それゆえ政治的義務の説明としては全く用をなさないものである。ロックはしばしばいわれるのとは逆に、彼の批判に正面から向き合い、いかにしてアナーキーにも専制にも陥らない契約説が可能かを深く考察した。この議論が上述のテーマと繋がるのは、ロックの議論の結果として現われる「自由主義」は地上から「絶対的」権利とともに「永続的」権利を放逐したものだったからである。この面からフィルマーとロックの関係を理解することで、今日しばしばいわれる「国家の退場」が、主権の「絶対性」だけに着目した一面的評価であって、問われることが少なくなった主権の「永続性」という観点からの考察もまた必要であることを提示できるのではないかと考えている。

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