博士課程院生研究紹介

「北進路線」と近代日本の岐路
滝田 遼介

本研究テーマに関する発表

発表者氏名
(著者・講演者)
発表課題名
(著書名・論文名・演題)
発表学術誌名
(著書発行所・講演学会)
学術誌発行年月
(著書発行年月・講演年月)
滝田遼介 「一九三九年秋期の対外情勢変動と日本――『北進路線』をめぐる外交と軍事」 『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』 第53号(2013年6月)119-161ペイジ。
滝田遼介 「米内内閣期『有田外交』の再検討――第二次欧州大戦下における外交戦略の形成」 『日本歴史』 2014年1月投稿、現在査読中。

研究成果実績の概要

(1) 博士論文全体の概要 本研究は、1930年代後半から日米戦争に至る日本の政治外交・軍事を「北進路線」を中心として分析・再構成することで、対外戦略としての「北進」がいかに当該期日本の対外・国防政策を規定していたのかを明らかにする。同時に、当該路線の展開を日米開戦回避の可能性の文脈で捉えることで、開戦過程における政策選択肢を再浮上させ、開戦原因の一端を解明することを目的とする。なお、本研究の手法は一次史料を中心とする実証分析による。本研究における「北進路線」とは、1)ソ連の軍事的・政治的脅威を強く意識し、ソ連を第一の仮想敵国と想定する、2)満蒙権益の擁護と北方軍備を国家的課題とする、3)対外膨張の方向性を北方・大陸方面に志向する、という3点に基づき、対外・国防政策を策定していく対外戦略のことである。1930年代から40年代にかけて、日本の指導者にとり「北方問題」は最も重要な懸念事項の一つであり、対外戦略全体にソ連要因が大きな影響を与えていた。加えて、近年の米国外交史研究は、米国の政策形成における日本の「北進」可能性の重要性を指摘している。かかる「北進」志向は、当該期日本の対外行動の態様、そして日米戦争への過程を分析する上できわめて重要な要因だといえよう。しかるに先行研究においてかかる意識は極めて希薄であり、当該期は「南進への道」として描かれてきたといってよい。そこで本研究の中心的作業は「北進路線」の歴史的展開を分析することとなる。まず、1930年代中期以降「北進路線」がなぜ日本の対外戦略の基軸として定着し、いかに対外・国防政策を規定していたのかが解明される。その際、陸軍に加えて特に注目するのは外務省外交の反ソ的潮流であり、就中、当該期の日本外交において枢要な位置にあった有田八郎の外交指導である。そして松岡外交以降、「北進路線」が変質・後退していく過程を分析し、その限界と意義を明らかにする。同時に「北進」-反ソ政策潮流を日米開戦回避の可能性の文脈で再検討する。
 本研究において期待される成果と意義は以下4点である。第一に、日米戦争に至る日本外交史に「北進」の視点から分析を加え、従来の外交史像に修正を施す。1930年代以降の「北進」の態様について初の体系的研究となる。第二に、新史料を援用しながら、従来等閑視されてきた「有田外交」の特質と意義を析出する。同時に、外務省外交の政策潮流が再構成される。第三に、軍事史研究として、対ソ戦争の中心的推進主体であった陸軍が、対米戦争のそれに変化していく過程・要因が明らかにされる。第四に、当該期の政治外交の分析から、対外危機のなかの外交・国防のあり方を抽出し、現代日本の政治指導の引照基準とする。

(2) 任用期間中に実施した研究の概要(「米内内閣期『有田外交』の再検討」『日本歴史』) 本稿は、米内光政内閣期の外相有田八郎による外交指導を、ソ連要因を射程に入れて分析することで、第二次欧州大戦初期における日本の外交戦略を解明することを目的とする。先行研究は、当該期の日本外交を「南進」・枢軸提携論を基軸とする現状打破路線への傾斜過程であると把握してきた。かかる外交史像は当該期を「北守南進」の形成過程とみなす通説的諒解と整合的である。しかし本稿は、外務省外交における対ソ脅威認識の存在に着目することで従来の解釈に疑問を提起した。第二次欧州大戦という対外危機下で日本が模索した外交戦略全体において、かかる対ソ認識はどのような影響を与えたのか。本稿は、特に有田外相の対外認識・政策論を内在的に分析することによって、この問題を考察することを基本的な課題とする。また、以上の分析を通じて、日本の第二次欧州大戦への外交的対応の一側面を素描するとともに、1930年代中葉以降の「有田外交」の特質と意義の一端を解明することを試みた。なお、本稿では新史料として有田の手帳・書類を援用した。本稿の結論は以下三点に集約される。第一に、米内内閣期の日本外交が、特にドイツ西方攻勢以降「革新」的色彩を帯びながら「北守南進」に傾斜してきたとする従来の外交史像に修正を施した。蘭印現状維持声明や有田放送は「南方との経済関係の強化」という従来路線の域を出ないものであった。そして、当該期の日本外交は強い対ソ脅威認識に彩られていた。有田にとりソ連は「提携」の対象であるどころか、外交的方途によって「圧迫」「牽制」することでその脅威に対処せねばならない隣国であった。それゆえ有田と外務省幹部は対ソ接近にきわめて冷淡であった。こうした態度は政界上層部において親英米派と「反共反ソ」論者によって支持された。第二に、対ソ脅威認識によって当該期の対米・対独政策が規定され、外交戦略の中で「対ソ牽制」が重要な位置を占めていた点を指摘した。また、第二次欧州大戦に対応する外交戦略は、単に「不介入」を基軸としただけでなく、特にドイツ優位状況の現出以降、戦後の独ソ対立の想定と、日米独が世界の各地域の主導的地位につくという戦後構想を伴うものだった。それゆえ、軍事同盟に至らない対独提携強化と日米関係の改善という一見矛盾する政策が同時に追求された。第三に、有田八郎研究としての成果である。当該期の有田の外交指導はソ連の脅威への対処という一貫した路線に大きく規定された。また、有田は独自の政策論に基づき、当該期の日本外交を積極的に主導した。ゆえに、少なくとも米内内閣期の有田に、弥縫策に終始したという先行研究の評価は当てはまらないように思われる。有田の政策論と外交指導は十分注目する価値のあるものであり、1930年代中葉以来の「有田外交」に対する統一的な再検討が残された課題となろう。

戻る

研究・教育の最先端より