博士課程院生研究紹介

冷戦変容期における大西洋同盟:「抑止」強化と「軍備管理」推進をめぐる同盟政治
合六 強

本研究テーマに関する発表

発表者氏名
(著者・講演者)
発表課題名
(著書名・論文名・演題)
発表学術誌名
(著書発行所・講演学会)
学術誌発行年月
(著書発行年月・講演年月)
合六 強 「中性子爆弾問題をめぐる同盟関係、1977-78年―カーター政権の対応を中心に―」 『国際情勢』(第84号・国際情勢研究所) 2014年2月

研究成果実績の概要

 私の研究は、「デタントと多極化」の時代として特徴づけられる1970年代におけるNATOの安全保障(抑止・防衛)政策の展開を、米国の視点を中心に据えつつ、欧州同盟国との相互作用を重視して分析する外交史研究である。
 米ソ対立を基調とする冷戦の二極構造は1960年末までに二つの点で変容した。まず、ベルリン・キューバ両危機を経て、米ソ両国が緊張緩和を模索する一方、欧州諸国も独自にデタント政策を展開したために、東西間の対立は次第に緩和していった。他方、日欧の経済的台頭や中国の政治的影響力の増大といったいわゆる「パワーの拡散」、そしてベトナム戦争によるアメリカの国力の相対的低下によって、両陣営内では政治経済面での多極化が進展した。
 こうした国際環境の変化は、冷戦の激化と西欧の経済的疲弊という状況のなかで形成された大西洋同盟にとって試練となった。先行研究の多くが指摘するように、1970年代の大西洋同盟は危機と対立に見舞われることになったのである。とはいえ、米欧諸国は最終的にこの冷戦変容期の危機と対立を乗り越え、米国の軍事コミットメントを前提とするNATOを欧州安全保障の中核に位置づけ続けた。そして在欧米軍の維持・増強、在欧米戦域核戦力の近代化、安全保障に関する共同宣言の発表等に見られるように、この時期、既存の安全保障枠組みが強化された。この研究では、米ソ間でSALT交渉などを通じて戦略核パリティとデタントの制度化が模索されるなか、その重要性が相対的に高まった通常戦力分野や戦域核戦力分野で、NATOの政策がいかなる論理に基づいて展開されたのかを分析することで、各国がいかに同盟を管理しようとしていたかを明らかにする。その際、米欧諸国で近年公開されつつある当該期の政府・外交文書、そしてそれを編纂した公刊資料集を中心的に用いて、米欧各国指導者の相互認識に注目する。
 上記のテーマに関連してこれまで以下二つの論文を発表してきた。第一は、「冷戦変容期における大西洋同盟、1972-74年:NATO宣言を巡る米仏の動きを中心に」『国際政治』(第164号、2011年)であり、第二は、「ニクソン政権と在欧米軍削減問題」『法学政治学論究』(第92号、2012年)である。いずれの研究も、多極化とともにデタントが進展していった1970年代前半から半ばにかけての時期を扱ったものである。
 今年度は、デタントが退潮する1970年代後半の同盟関係に焦点をあてた研究を行った。その成果の一つが論文「中性子爆弾問題をめぐる同盟関係、1977-78年:カーター政権の対応を中心に」である。本論文では、77年半ばに突如巻き起こった中性子爆弾(ERW)の製造・配備をめぐる論争に対するカーター米政権の対応と欧州同盟国の反応を分析した。以下ではその概要を記す。
 1977年6月、ワシントン・ポスト紙は米エネルギー研究開発庁の予算にERWの製造資金が密かに含まれていると報じた。ERWはその性質から一般市民への巻き添え被害を減らし、抑止の信頼性を高める核兵器として米欧の軍事・安全保障関係者の間で期待されていた。しかし、メディア報道をきっかけにこの兵器は「建造物を温存して人間を殺傷する兵器」との否定的なイメージが広まったため、特に配備先である西欧諸国内では配備への反発がみられた。
 対応に追われたカーター大統領は事前にこの予算を把握していなかったが、その軍事・抑止効果を高く評価していたため、資金を議会に求めるとともに同盟国には速やかに立場を表明するよう求めた。ERWは冷戦の最前線である欧州に配備されてはじめて効果を発揮するため、同盟国の意向が重要になったのである。だが同盟国政府は、国内の反発の激化やデタントへの影響を恐れ、その軍事・抑止効果を認めつつも、立場を表明することを躊躇った。
 同盟国との協議が長期化の様相を呈するなか、同年11月、米政府内ではERWに関する三つの方針が定められた。まずは製造を進めるという方針である。第二は、同盟国にも政治的負担を分担させるため、製造の条件として配備への同意を同盟国から得るという方針だった。そして最後は、ERWの製造・配備決定をソ連との軍備管理交渉とリンクさせる方針だった。米国はこれによって軍備管理に積極的であることを示すとともに、ERWを交渉材料にソ連の軍拡(特に西欧が恐れる新型中距離核戦力SS-20の新規配備)に歯止めをかけようとした。
 そして1978年1月以降、米国はこの方針を同盟国に提示し、再協議に臨んだ。西欧ではERWへの反発が依然強く、どの政府も配備への同意を表明していなかった。それでも協議を重ねた結果、同年3月にはNATO内で配備をめぐる合意に見通しがたった。だがこの交渉の最終段階でカーターは突然、西欧側の消極性を理由に方針を転換し、ERWの製造を進めることはできないと判断した。これに対して、外交・安全保障政策を担当する大統領の側近らはカーターに再考を促した。同盟国に米国の方針を提示し、配備受け入れを求めたからには、計画通りに事を進めなければ西欧における米国や大統領個人の信頼性が低下すると恐れたためだった。しかし、カーターは最終的にこうした反対論を押し切る形で、同年4月、ERW製造計画中止を発表した。彼からすれば、西欧の国内状況に鑑みればこれは理に適った決定だった。他方、米国の信頼性を維持しようとした側近からすれば決して合理的ではなかった。大統領の政策転換は、米国の政策が不確かで一貫性のないものと他国には映り、西欧との関係を悪化させたからだった。
 現在、以前学会で報告した「NATOの二重決定(1979年)」に関する論文を、欧州で新たに得た史料を精査しながら加筆・修正している。これにより、いかにして安全保障面で悪化した同盟関係が78年4月以降、協調の道を辿ったのかが米欧双方の認識とともに明らかになる。今後の課題はこれを学会誌に投稿することにある。

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