研究プロジェクト紹介

リチャード・タック
The Rights of War and Peace: Political Thought and the International Order from Grotius to Kant 翻訳

 今年度から、広い意味で政治思想を専攻する大学院生が集まり、萩原能久教授の指導の下で、リチャード・タックの『戦争と平和の権利』の翻訳プロジェクトを開始した。現代「政治思想」は明らかに視野の拡大を求められている。今日、政治思想あるいは政治理論を専攻すると言うとき、それは暗黙裡にいくつもの限定が付されている。一つは、それが多くの場合「西洋」の政治思想・理論である、という点である。これについては、現在多くの研究者がその問題を認識し始めている。たとえば、慶應義塾大学の教員も積極的に携わってきたEast Asian Perspectives on Politicsという国際プロジェクトは、西洋の政治思想をあくまで世界の一つの政治的伝統とみなし、その上で、他の文化の政治的伝統といかに両立させるか、そして西洋が他文化から何を学びうるかを追及している(その成果の一部は、Journal of Political Science and Sociology, No. 16, 2012を参照)。
 「西洋」という大きな枠組が前提とされていることと一見矛盾するようであるが、同時に、これまでの「政治思想史」はネーション・ステートの枠組みに沿った「一国内」の政治思想史が通例であった。一九七〇年代に出版されたクェンティン・スキナーの『近代政治思想の基礎』とジョン・ポーコックの『マキャヴェリアン・モーメント』は、政治思想史研究者の必読文献となっているが、これらの作品は、帝国と自治というテーマに光を当てているものの、決して独立した政治共同体の関係に焦点を当てたものではない。しかしながら、複数の政治共同体、複数の文化の平和的共存の追求が切迫した問題となっている今日、「国際政治思想」の不在はどう考えても健全な状態とは言い難い。
 リチャード・タックの手による本書『戦争と平和の権利』は、未だ空隙となっている「国際政治思想史」に対して重要な貢献をなした作品である。西洋政治思想史の「古層」であるアリストテレス・キリスト教の伝統とローマの共和主義の伝統を引き継ぎ、あるいはこれに対峙し、近代の政治思想家たちがいかにして個人の権利と国家の権利を構想したのかをタックは描き出している。その出発点となったのがグロティウスである。グロティウスは「国際法の父」と呼ばれることがあるように、彼の主著De jure belli ac pacisはこれまでもっぱら『戦争と平和の法』と訳されてきた。これが間違っているわけではない。確かに彼はこの大部の書物の中で、戦争の中にあっても守られるべき法(jus in bello)の存在を強調している。だがこれは、言ってみれば、jusという語が有する二つの面の一方だけに光を当てたに過ぎない。jusは法であるとともに権利でもある。そしてこの権利としての側面が強く表れるのが、戦争をはじめるにあたって満たすべき要件(jus ad bellum)に関する議論である。本書が議論の対象としているのは、後者の議論、そしてjusの「権利」としての側面である。それゆえにタックは、初期の英訳の一つに注目し、De jure belli ac pacisの訳として『戦争と平和の権利』を採用し、これをタイトルに掲げたのである。
 タックの最も重要な主張の一つは、戦争を行う権利の議論に注目する限り、グロティウスはそれまでのスコラ主義的「国際法」の伝統の継承者ではなく、その破壊者として現れるという点である。グロティウスは当時の政治的問題に対処するために、個人にも国家と同じく戦争をなす権利があると主張した。この主張を支えるために、彼は国家の権利は元来個人に属するものであって、それゆえ個人は「自然状態」において国家と同等の権利を有すると論じた。これは、キリスト教がヨーロッパの知的源泉となっていた初期近代においては革命的な主張であった。それまでのスコラ主義的な政治理論家はほぼ例外なく、個人は他者に害を与える権利を有していないがために、国家が刑罰を与える権利は個人に由来するものではなく、神から特別に授けられた権利だと理解してきたからである。グロティウスはこの伝統を根本から逆転させることで、その後の個人の権利と国家の権利を論じた思想家たちに重大な影響を残すことになった。
 その中でも特に目を引くのがトマス・ホッブズである。彼は国家の存在しない状態を「自然状態」と規定した。だが自然状態は単なる空想の産物ではない。自然状態はまさに「国際関係」として現実に存在しているのである。よく知られているように、ホッブズは自然状態にある個人は、自然権を有しており、この権利を放棄することによって国家を設立すると考えた。こうして生まれる国家を、ホッブズは可死の神、「全ての高慢な者たちの王」リヴァイアサンと呼んだ。しかしこのリヴァイアサンが住むのは、他のリヴァイアサンが並び立つ世界、つまりホッブズにとって「自然状態」なのである。そうだとすれば、なぜ国際関係と言う名の自然状態からは新たな国家――世界国家――が生まれないのだろうか。
 ホッブズはこれを解決しようとはせず、この問題はそのまま後の思想家たちに残された。彼らが直面したのは一つのパラドックスである。グロティウスは、国家の権利をモデルとして、そこから個人が持っているはずの権利を推論し提示した。ホッブズは、この個人が持っているはずの権利から、国家を作り上げるメカニズムを構想した。だが一旦個人に国家と同等の権利を帰着させてしまった以上、個人が有する権利から生まれるのが世界国家ではなく、世界の中の一つの国家に過ぎないのはなぜか、という疑問は解決不可能な難問として立ち現れる。もちろん、理論的には簡単な解決方法がある。個人の権利から一足飛びに世界国家を作るべきだと主張すれば、この難問はすぐに消えてなくなるだろう。だが、ヴァッテル、ルソー、カントといった著名な思想家たちは、この考えに浸るにはあまりに「リアリスト」であった(ルソーにとってはフランスですら「広すぎる」のである)。彼らはこのホッブズの残したパラドックスを、パラドックスまま引き受け、しかしそれでも国際関係を政治理論的に理解可能な形で捉えようとした。タックはその過程を魅力的に描き出している。
 一見して分かるとおり、タックはあくまでこの過程を思想史として叙述している。しかしながら、本書の重要性は、厳密な歴史的議論が単なる好古趣味の追及に終わることなく、現代の国際政治を考察する上でも重要な洞察をなしている点に求められる。今日、個人の不可侵の人権を前提とした「自由主義」は、特に西洋においてはほぼ普遍的に認められる政治原理となった。タックが明らかにしているのは、この自由主義の淵源が、今日の人間が認めるのを躊躇するような国家の権利をモデルとして構築されているということである。現在では、国家の権利はさまざまな国際機関によって「制限」され、ときには「国家の退場」までが論じられている。タックはそれに反対しているわけではない。そうではなく、彼は本書を通じて、果たして国家の権利の「制限」は、個人の権利の再考なしに論じられる事柄なのか否かを考えるよう我々に求めているのである。
 本書の翻訳は、これまで日本でも等閑視されがちであった、しかしながら現在最も必要なテーマである「国際政治思想」という分野に注目を集めるきっかけになると考えている。

(法学研究科政治学専攻博士課程3年 古田拓也)

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